2015年10月

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いまこそアダム・スミスの話をしよう 木暮太一








地位が上がった当初は、それまでと比べて大きい幸せを感じることができるでしょう。ところが、それは一時的なもので、その状況に慣れてしまえば、もはや「幸せな状態」ではなくなってしまうのです。
つまり、「もっと裕福になれば、もっと地位が上がれば幸福になれる」というのは、永遠に満たされない欲求なのです。

この感情、つまり「もっと幸せになれる場所があり、自分はそこにはいない。そこに行きたい。」と考えてしまうことが「人が幸福になれない一番の理由」です。なぜなら、そう思うことで常に落ち着かず、「心の平静」が得られないからです。

逆に考えると、幸福を手に入れるためには、「自分が今、うらやましく思っている状態と、現在の状態は大差ない」と認識しなければいけないのです。

「理想に見える状態に辿り着いても、満足感を感じるのは一時だけ。幸福感は、現時点で感じているレベルまで、すぐに戻ってきてしまう。だからそのような幻想を追いかけても意味がない」
と考えるべきなのです。これはまさしく「賢人の考え方」です。

これは幸福感だけに当てはまるものではありません。
不幸についても、同じことが言えます。 スミスは次のように記述しています。

『賢人は、たとえ自分に災難が降りかかっても、やがては「大したことではなくなる」ということを理解している。そして、その時をあらかじめ見越して、最初から「大したことない」と思うように努力する。』

どんな不幸が起きても平気ということでは、もちろんありません。またどんな傷でも完全に癒えるということでもないと思います。しかし、「大丈夫。やがては大したことではなくなる」という意識を持ち続けることで、人は「心の平静」を手に入れることができるのです。「長い目で見たら、大したことではない」、そういう意識になれるのが賢人なのです。













必要以上の富は虚栄に過ぎす、追い求めても意味がない。むしろ追い求める過程で人は不幸になる。そして、首尾よく手に入れたとしても、やがてその喜びは消えてなくなる。一方、災難が降りかかっても、やがて「落ち着き」を取り戻す。

そうであるならば、富を求めても、不幸が降りかかっても、やがては「同じ場所」に戻ってくることになる。それを最初から理解して本当に大事なものを追求すべきである。
これがスミスの「幸福論」の結論です。












限界効用逓減の法則

「限界効用」とは「その都度感じる満足感」、「逓減」とは「だんだん減っていく」という意味です。
同じビールでも、1杯目と10杯目では満足感が違いますね。「限界効用が逓減する」のです。
スミスの分析は一見「感覚的」ですが、現代の経済学理論の中でも「慣れ」と「満足感・幸福感」の関係が読み取れるのです。

経済発展は、生活に必要なものをそろえ、失業をなくすために必要、
そうすることで人々は心の平静を保ち、幸福を手に入れるから、
そして同時に、「心穏やかに暮らすこと」を考えない経済発展は、何の意味もない、
そう感じすにはいられませんでした。











「他人からの同情を得る」ということは、他人が自分の状況を「正当」だと感じ、「君の言っていること、感じていることは、もっともだ」と言ってくれるということです。
ただし、ここには1つのハードルがあります。それは、『他人は自分と全く同じようには感じてくれない』ということです。

たとえば、自分が一万円を落としたと想定してください。当事者としては「一大事」で、かなりショックを受けると思います。しかし、周囲も同じように「一大事」と感じてくれるかというと、そうではありません。
もちろん、少しは同情してくれるでしょう。しかし、私たちが何時間も、何日間も「一万円落とした…。あんな場所に行かなければよかった…。一万円あればあれもこれも買えたのに…。」と繰り返していたら、どう思われるでしょうか?おそらく恋人や家族でさえも「そこまでの出来事ではない。大げさ」と批難するでしょう。実際、自分にとっては大変価値があったとしても、他人はそこまで考えてはくれないのです。
「他人が当事者ほど重く感じてくれない」ということは「マイナスの出来事」だけでなく、「プラスの出来事」にも当てはまります。

「人は、過剰に喜んでいる人を受け入れるほど優しくない。」
(度過ぎた喜びに対しては、我々はなんらかような寛大を持ち合わせていない「道徳情操論P118」)

つまり、マイナスでも、プラスでも、自分の感情をそのまま全面に出してまうと、他人の同感は得られないのです。

この状況で他人からの同感を得る方法はひとつ。他人が同感してくれるくらまで、自分の感情レベルを押さえ、凛としていなければいけないのです。

自分の感情を押さえて「一万円落としたけど、仕方がないね」「表彰されたのは嬉しいです。でも応援してくれる皆さんのおかげなので、皆さんにお礼を言いたいです。」と言えば、周囲の人々は「その感情はもっともだ、君は正しい!」と思ってくれるようになります。

こうして「尊厳(事故統制)の美徳」が創られるのです。これも「周囲からの同感を得たい」と感じることが発端となっています。「同感」を得ようとする過程で備わる美徳なのです。

「仁愛」や「尊厳」は、他人との関わりの中で、認識される美徳です。必ずしも自分の幸せには直結しませんが、社会の中ではとても大切なものです。人間にこれらの美徳が備わるからこそ、社会が穏やかで、人々にとって心地よいものになるのだと思います。

















自分自身を評価する時には、「偶然に出た結果」に安易に喜んではいけません。目をつぶってホームランを打っても、自分は良くやったと感じてはいけません。仮に世間が賞賛してくれても、その評価に「便乗」してはいけません。
同時に、自分自身が納得できるプロセスを踏んでいれば、「たまたま悪い結果」になったとしても、満足すべきです。これが「賢人」の考え方です。

ですが、これは「自分自身をどう見るか」の話です。自分自身を評価する時には、たとえ表面的な結果はよくなくても、自分自身が納得いくプロセスを踏んでいれば「善」と考えていいのです。結果だけにこだわらず、地に足をつけた本質的な評価をすべきなのです。

一方、世間からの評価は「結果を出してこそ」です。ここを混同してはいけません。いくら「自分は頑張った」といっても、周囲はそう思ってくれません。自分自身をどう見るかとは別に、「結果が出なければ、当然世間に認めてもらうことはできない」、そう認識しなければいけないのです。














社会と交わり、自分の行いや考え方を常に他人の評価にさらそう
その結果として自分の中に規範を持とう
世間の軽はずみな評価に惑わされず、自分の中の規範に従おう
心に大事なものを持とう
その大事なものを裏切らないことを心がけよう
『道徳感情論』と『国富論』を読んで、そう考えるようになりました。




賢人と軽薄な人の区別は、「どれだけ大きな実績を出しているか」ではなく、その人が自分の中に作り上げた道徳規範に、真摯にしたがっているかです。自分に嘘をつかず、周囲の雑音に惑わされずに、「正しい」と信じたものを実行していく、それが賢人なのです。

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トニー流 幸せを栽培する方法 トニー・ラズロ 小栗左多絵



「耐えるのが必要でも、『好き』といって耐える必要はない」
(ブルトンのことわざ)

「嫌い」と言ってしまうことで、
「自分はこれ(この人)が嫌いなんだ」と自覚してしまう気がする。
口に出すと、この世にその気持ちが存在してしまうから。
表現をゆるめておいた方が、その評価を訂正する余裕があるのかも。
「嫌い」と言わない「だけ」ということになる感もありますが…






「ほどほどにするよりは、完全に断つ方がやりやすい」
(アウグスティヌス)

理想を持つのって、いいことだと思う。
だけど「こうでなくっちゃ」ってそれにとらわれすぎると、
自分の今の状態を「これが足りない」とか「できない」とかマイナスで考えてしまいがちな気がする。







人というのは、「ほどほど」にしようにも、必ず何かの中毒になる。いつの間にか入れ込んでしまうというものが、1つや2つあるのではないだろうか。下手をして身体や心を害する何かに依存してしまったら、そのまま一生苦しむことになるかもしれない。
ならば、自分の中毒対象は慎重に選べ、と言いたい。癖を持たないより持つほうが自然なので、避けたいのは、癖ではなく、悪癖なのだ。

「なくて七癖、あって四十八癖」
(日本のことわざ)

「人生の後半は、その前半で身に付いた癖だけでできている」
(ドストエフスキー)

「麻薬を使わない。私自身、麻薬なのだから」
(ダリ)






道を訊くなら、その地域の言語を少しは覚えたほうがいい。新しい土地に行くとき、一番最初に覚えておく言葉の1つは「どこ?」だ。「ここはどこ?」や「駅はどこ?」などという簡単な質問が出来るように。
地元の人にこのような質問を投げてみると、「左」や「右」のように簡単に教えてくれることもあるし、「ずっとまっすぐ行ってから、その次の角を左に曲がって坂道を登って…」と、こちらがまったくわからないような言葉が早口で返ってくる場合もある。しかし、大抵は、喋りながら指で方向を示してくれるから、なんとなく言っている内容は理解できる。

親切からくる知ったかぶりに対抗する策として、僕は訊く人数を必ず奇数と決めている。大抵は三人か五人。それで多数決をとって、進む道を決めればいい。

他人に何かを教えてもらうというのは、何も旅先に限定した話ではない。日常生活の中でも「知っていても訊く」を実践すれば、浅い知識をより深くできるし、自分の今の知識を確認することもできる。だが、それより何より、人と仲良くできる。質問ついでに、これから先のコミュニケーションの道筋も作れるのだ。

「たとえ『千』のことを知っていても、わからない場合は「一」が専門の人に訊こう」
(トルコのことわざ)

「指で月を指したのに、あなたは私の指先しか見えていない」
(スクマ語のことわざ)









「人間万事塞翁が馬」

人間万事塞翁が馬の寓話が言わんとしていることは、最後の教訓にある。
「幸不幸は見極めることができない。だから過剰に落ち込んだり、喜んだりしないようにしよう」

陰と陽の関係で、幸福と感じるものの中にも不幸が、不幸と感じるものの中にも幸福が同様に含まれている、と訴えているように思う。この寓話を中国語で読むと、特にそういう印象を受けるのだ。



「不幸な人は希望を持って、不幸な人は用心せよ」
(ラテン語のことわざ)

「背負っている荷物が割れた時には、肩を休めることができる」
(チュイ語のことわざ)

例えば道で転んでしまった時。
「痛い」「恥ずかしい」「ついてない」と思うけど、
私はできるだけ「あのまま転ばずに歩いていたら、次の角で車にぶつかっていたかも」なんて、想像してみる。
回避できた危険って意外と気づかないものだし、起こった出来事に意味をつけるのは人間の気持ちひとつじゃないかな。「ホントのところ」はわからないんだから、いいように考えたほうがいいかな、と。














「善思、善語、善行」

これは「ゾロアスター教」の基本的な教えであることがわかった。僕はこれを「悪い道ではなく、良い道を選択するように」というありがたい助言として受け止めている。

「今日1日、善い考え、善い言葉、善い行いをしよう」という言葉を口にすることで、あるいはそう思うだけでも、人間としての基本に立ち戻れる気がする。

善と悪をよくわきまえた上で、善い方を選ぶことが人間一人ひとりに任せられている。


「ごみ捨て場のハエにならず、むしろ花庭園を飛びまわる蜂になろう」
(インドネシアのことわざ)















自分は何がしたいのかが見えてこなくて苦しい時、むしろやるべきことを先に考えるという手もある。少なくとも気分転換にはなる…かな。

「出来る人はやりたくないと言う。したい人は出来ないと言う。やり方がわかる人はやらないと言う。物事をやるのは、結局やり方がわからい人になるのだ。このように、世の中が悪い方向へ行ってしまう」?
(イタリアのことわざ)

「自分の道徳観に邪魔されずに、正しいことをしろ」
(アシモフ)









中国・春秋時代の思想家、孔子が「論語」で唱えた有名な言葉がある。

「われ15にして学を志し、30にして立つ、40にして迷わず、50にして天命を知る、60にして耳したがう、70にして心の欲するところにしたがってのりこえず」

そもそも人間は、人生の節目の直前、または直後に落ち込みやすい生き物らしい。毎年同じように1歳ずつ年を重ねているのに、10年の区切りが来ると急に年を取った気分になり、もう若くない自分に衝撃を受ける。区切りがいいだけに、様々なきっかけが生まれやすいのだろう。

今は孔子の時代と比べて人間の寿命がだいぶ延びてるし、教育を受ける時間も長い。孔子の教えは現代人の一生にピッタリ当てはまるとはいえないかもしれないが、詩の精神は生きている。




「お誕生日おめでとう」と言うと、
「めでたくもないけどねー、また1つ年をとっちゃって…」と返ってくることがある。 
(気持ちはわかりますよー)でもまあ、ここはひとつ「この1年無事でまたお誕生日を迎えられておめでとう!」ってことでどうでしょう。
そして、もう何十年か生きると、人はまた「年齢自慢期」に突入するような…













劇作家のジョージ・バーナード・ショーが「超人間・革命家のための格言(1903年)」で次の言葉を残している。

「自分が人からしてもらいたいことは決して人にするな。趣味が違うかもしれないから」

この言葉は単純で、「黄金律」をワザと茶化しているユーモラスなものだが、意外に的を得ていると思う。「人にどうしてあげるべきか」という問に対する、1つの答えは存在し得ないということを示唆している。対人関係は複雑で、そして、ショーの指摘のとおり、人の趣味は様々だ。冷静に考えれば、面倒でも、どう対処すべきかはいちいち状況を見て判断するしかない。





「敵が転んでも祝わない。ただし、再び立つのも手伝わない」
(イディッシュ語のことわざ)












「寄付をした」と誰かが表立って言うことで「自分もしよう」という意識が広まることもあるのではないだろうか。
「偽善」とか「売名」とか「自己満足」って言われても、そして本当にその通りだったとしても、どこかで誰かのパンが買えることに変わりはないはず。













東洋の「滅私奉公」(自分を完全に犠牲にしてまで公のために尽くす)も聞こえはいいが、よく考えれば、本当に自分を滅した人は、他者にあげられるものはないのではないか。

僕にとっては「自利利他」という仏教の教えが、人助けをするためのより良い方法を示している。

自分のことを考え、他の人のことも考える、というふうに解釈している。

私の幸せはあなたの幸せとつながっている。誰もが「自利」で忙しい。それでいい。しかし、「利他」も決して忘れてはならない。それは、出来る時に、出来る程度で、出来る方法でやればいいものだ。





「後ろを歩くな、私が導くとは限らない。前を歩くな、私が従うとは限らない。真横に付いて、一緒に歩こう」
(ウト語のことわざ)



















「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がある。人の言動がたとえ「罪」というほどのものでなくても、批判に値すると思えば、批判してもいいと思う。でも、人を憎んではならない。どんな人にでも、数多くの側面がある。とことん悪そうに見える人でさえ、基本的には人間として評価できるところが必ずある。わざわざ評価できる点を見つけて評価しろとまでは言わない。しかし、人を「悪い」とか「ずれてる」などと決めつけ、全人格を否定するようなことをすれば、理性のある「人間の自分」が何処かへ飛んで行って、「動物の自分」というレベルに陥ってしまう。それは避けたほうがいい。


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健康診断で血糖値が高めの人が読む本 及川眞一 




血糖値とは、血液100ミリリットル中のブドウ糖の量のことです。
血液中のブドウ糖(血糖)は、私たちの活動のエネルギー源となるもので、食事で体内に取り込まれた炭水化物から作られます。
そのため、食後は誰でも血糖値が高くなり、エネルギーが源として血糖が使われると、徐々に低くなります。このような血糖値の変動には膵臓(すいぞう)から分泌される「インスリン」というホルモンが関わっています。








日本人の糖尿病の95%以上は2型糖尿病で、40歳以上の人によくみられます。
2型糖尿病は、遺伝的な要素がある人に起こりますが、それだけでは発症しません。遺伝的な要素に加えて、食べ過ぎや運動不足、肥満、加齢などの様々な誘因が加わって発症します。

食べ過ぎや運動不足などの要因があると、インスリンを受け取る受容体に異常が起こり、インスリンの働きが悪くなります。このような状態を「インスリン抵抗性」といいます。

また、β細胞にも異常をきたして、インスリンが十分に作られなくなったり、分泌が遅れたりします。こうして起きるのが2型糖尿病です。







血糖値を正常に戻すためには、生活習慣を改善して、インスリンの効きを良くすることが基本になります。
逆に言えば、薬を使わなくても、食事や運動を工夫すれば、自分で血糖値を下げることができます。それが高血糖による合併症を防ぐことに繋がるのです。






血糖値を下げるための食事療法というと、「ブドウ糖になる炭水化物だけを制限すればよいのでは」と思うかもしれません。
しかし、長期間炭水化物をとらないと、体内の脂肪やタンパクが分解されて、衰弱してしまいます。そのため、炭水化物もキチンととる必要があります。

具体的には適切エネルギー量の5割を炭水化物から、3割をタンパク質から、2割を脂質からとるのが理想です。
これらにビタミン、ミネラルを含めた五大栄養素、そして食物繊維をまんべんなくとることが大切です。









「甘いものは別腹」と、必要以上にとることは、炭水化物の食べ過ぎになります。お菓子やジュースなども1日の総エネルギー量に含めて考えます。

では、主食を減らしてお菓子を食べればよいかというと、そうもいきません。
お菓子やジュースには、炭水化物の中でも「砂糖」が多く含まれています。
砂糖は吸収が速いため、血糖値の急上昇を招き、膵臓に負担をかけます。また、主食とは栄養素が異なるため、エネルギー量が同じでも、ご飯の変わりにはなりません。











早食いは血糖値の急上昇を招き、長い間には膵臓の働きに影響するため、改める必要があります。

私たちの体は、食事開始からある程度時間が経つと、「お腹がいっぱいになった」という情報が脳の満腹中枢に送られます。
しかし、早食いの人の場合、情報が送られるまえにたくさん食べてしまいます。その結果、食後の血糖値の急上昇を招き、膵臓の働きに影響を与えます。また、肥満にもなりやすくなります。

満腹中枢から「満腹になった」という情報が出るまでには、20分くらいかかるとされています。最低でも20分くらいは時間をかけて、食事をとるようにしましょう。
1口につき、20回以上噛むようにすると、早食いの防止になり、消化もよくなります。








あんパンやクリームパン、デニッシュなどを、朝食や昼食で食べる人も居るかもしれません。
これらの菓子パンは、砂糖やエネルギーが多いため、嗜好品(しこうひん)として扱います。
主食としてとることはできないので注意してください。







タンパク質を主成分とする食品は主に主菜となるものです。
具体的には、魚介、肉、卵・チーズ、大豆・大豆製品の4つがあります。「食品交換表」では表3に分類されています。

同じタンパク質とはいっても、動物性タンパク質と、植物性タンパク質とでは、栄養価が異なります。また、魚介と肉でも、栄養価は違います。

したがって、4種類をまんべんなくとることが大切です。昨日は魚を食べたから、今日は肉にする、というように日替わりでとるのもよいでしょう。

タンパク質を主成分とする食品には、脂質をかなり含むものもあります。
肉は脂質が少ない部位を選ぶようにします。ベーコン、ソーセージなどの加工食品には脂質が多いので、できるだけ控えてください。
卵やチーズも脂質が多いため、適量を守るようにしましょう。







牛乳はタンパク質のほか、ビタミンや脂質も多く、特にカルシウムが豊富です。そのため表4として分類されます。ヨーグルトなどチーズ以外の乳製品も表4です。

カルシウムを補給するためにも、表4の食品は毎日とりたいものです。
牛乳なら1日1.5単位(180ミリリットル)が目安です。











ピーナッツやベーコンなどの多脂性食品は避ける

多脂性食品には、アボカド、豚バラ肉、ベーコン、アーモンド、ピーナッツ、くるみ、クリームチーズなどがあります。
つい食べ過ぎてしまうものが多いので、避けたほうがよいでしょう。











野菜は主に、ビタミン、ミネラル、食物繊維を多く含む食品です。海藻やキノコ、こんにゃくも同じ仲間として考え、「食品交換表」では表6に分類されます。
野菜は1日に
300グラム以上とるようにしましょう。緑黄色野菜、淡色野菜などいろいろな種類をとるようにします。
特に緑黄色野菜はビタミンなどが豊富なので、全体の3分の1以上は緑黄色野菜でとるようにしましょう。










抗酸化作用とは活性酸素の害を抑えることで、ビタミンC、ビタミンEなどのビタミンやβカロテン、ポリフェノールなどに認められています。











味噌や砂糖、トマトケチャップ、みりん、はちみつなどはエネルギー量を無視できない調味料です。使いすぎると、エネルギー過剰になるため、合わせて1日0.5単位(例、砂糖4グラムと味噌12グラム)が適量とされています。

塩やしょうゆ、酢、ソースなどはエネルギー量の計算は必要ありません。しかし、酢以外は「塩分」が多いため、できるだけ控えめにしたいものです。











運動は続けるほど、多くの効果が得られます。
まず、筋肉などでインスリンの効きがよくなり、血糖コントロールが安定します。また、高血圧や高脂血症などの改善にも役立ちます。さらに、脂肪が減るために肥満の解消にもつながります。

運動は続けるのが大切です。
しかし、血糖値が高くても自覚症状がないだけに、運動の効果を実感しにくく、続けるのはなかなか難しいものです。
「疲れにくい体を作りたい」「体力を増進したい」など、できるだけ具体的にイメージすると、運動を続ける励みになります。

運動強度の目安として、脈拍数もよく用いられます。
しかし、高血糖の人の場合、健康な人と比べてもともと脈拍数が多く、増えにくいという傾向があります。そのため、運動時の脈拍数は100を越えないくらいを目安にするとよいでしょう。

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