2015年09月

生きがいについて 神谷美恵子コレクション







すでに述べたように生きがいを失った人間が死にたいと思う時、一番邪魔に感じるのは自己の肉体であった。しかし実際はこの肉体こそが本人の知らぬ間に働いて、彼を支えてくれるものなのである。

自殺未遂者の大多数(80%)はあとで「死ななくてよかった」といい、大部分(75%)が「心構えが変わった」述べた調べがある。自殺行為により必ずしも生活環境が変わったり、願望が達せられたりしたのではないのである。




時の経過はまた外側の生活状況も変え、新しい環境、新しい対人関係、新しい事態をもたらす。人間は否応なしにそれらの新しい刺激に対応しなければならなくなる。そのために、古い感情や欲求や夢は次第に意識の外に追いやられることになる。しかし、これは必ずしも存在なくなることを意味しない。フロイトのいうように、自分にとって都合の悪いことは抑圧され、無意識の世界に押しやられるということも確かにある。しかし生きがいを奪われたというような状況は多くの場合、そう簡単に無意識の中に封じ込められてしまいうるものではなく、単に意識の周辺に押しやられ、そこで存在し続けるのではなかろうか。それが意識の中心を占めるものの背景となって、これらに影響を及ぼすものと思われる。それは虚無と暗黒の背景であるから、ちょうど視野装置の顕微鏡で物を見ているように、対象の存在が浮かび上がって見えるのではないかと思われる。








さて、自らの生命を断ちたいと願う心を抑えるものは何であろうか。

ウィリアム・ジェイムズは「人生は生くるに値するか」という文章の中で、たとえ宗教や哲学を持っていない人でも、自殺一歩手前というところで、次の3つのものによって踏みとどまることができるはずだといっている。
第一は動物ですら持っている単純な好奇心で、人生にまったく生きる意欲を失った人間でも明日の新聞に何が載るだろうかとか、次の郵便で何がくるかを知るためだけでも(自殺を)あと、24時間のばすことができる。
第二は憎しみや攻撃心であって、たとえ心の中で愛や尊敬のような感情が死んでいても、自分をこんなひどい目にあわせるものに対して戦おうという感情に支えられることもできる。
第三は名誉心で、自分というものの存在を可能ならしめるために、どれほどの犠牲が払われたか、例えばどれほど沢山の動物が自分を養うために屠殺されて来たかを考えれば、自分もまた自分の分を果たし、これくらいの悩みは耐え忍ぼうという気を起こすのが普通である、と言っている。
動物の屠殺の項はいかにも西洋人の意見らしくておもしろいが、この名誉心というのを自尊心ということに振り替えてみるなら私達もうなずける。日本の大学生たちに自殺についての意見を書かせてみると、自殺は卑怯であると記す者が多い。自尊心と生への責任感が自殺を踏みとどまらせるのに役立っていることは確かであろう。

第一の明日への好奇心は、前に述べた時間の問題に繋がる。
絶望している人には、未来が存在しないのであつたから、だとえ一日でも待つという心を持つことができれば、それはすでに前向きの姿勢ということができる。自分はいつまでもこの惨めな自分でしかなく、事態はいつまでもこの絶望的なものでしかないと決め込んでいるのが自殺志願者の通有性なのであるから、この人たちにとって時間の持つ可能性を信頼するということは一大事業といえる。「ただ立ちて待つ」(ミルトン)こと自身が絶望への屈服を拒否する第一歩なのである。

自殺を踏みとどまらせる上に一番大きな原動力となるのは、何と言っても第二の攻撃心かも知れない。打たれれば打ち返す、というのが人間に備わっている原始的、本能的な反応の仕方だからであるから、運命の打撃を受けた人間がまず最初に発するうめき声は「なぜ自分だけがこんな目にあわなくてはならないのだろう」という、あのぱーる・バックの恨みに満ちた言葉である。この恨みと攻撃心が自分に向けられてしまえば自殺となり、どこにもこれを持って行きようのない時、それはいつまでも心の中で燻り続け、マックス・シェラーの言う「怨根の人」をつくり出す。それが自分よりも運のいい人たちに向かって発散され、嫉妬や憎悪やあの嫁いびりなどにみられる「シャーデンフロイデ」の形をとることも稀ではない。またそれが過度に厳しく他人を取り締まる道徳家をつくり出すこともある。犯罪の中にもこのような恨みの心から起こるものがかなりあることはよく知られている。

しかし、この恨みの念も、報復の念も、適当な方向とはけ口さえ与えられれば、ひとたび足場を失って倒れた人間を再び起き上がらせるバネの役目を果たしうる。










自暴自棄によって自殺、犯罪、嗜癖やデカダンスに陥る人々を眺めてみると、そこにいくつかの共通点がある。その中で一番目立つのは我慢の無さと時間に対する不信の念である。つまり、みな短気を起こしているのである。どうせ自分なんかもう駄目だ、と自分を見限り、事態も良くなることなどありえない、と世界と時間の可能性に対しても完全にみきりをつけてしまっている。そして、耐え難い苦悩を断ち切るため、まぎらわすため、「短絡的反応」に出るわけである。
生きがいを失った人が、もし新しい生きがいを見出したいと願うならば、その探求はまず一切を見限ってしまいたいこの心、このはやる心を抑えることから始まらなければならない。

すでにプラトンも「国家論」のかなでいっている。
「不幸な時にはできるだけ静かにしているのがいい。そして不満の感情はすべて抑えるほうがいい。というのは、こうした出来事のなかにどれだけ善いものと悪いものが含まれているか、我々には評価出来なからである。また、同時に、短気を起こしても何の助けにもならないからである。」(第604節)

生きがいを失った人が、もし忍耐を持つことが出来れば、長い時間の経つうちには、次第に運命のもたらしたものを素直に受け入れることが出来るようになるであろう。避けることの出来ないものは受け入れるほかはないという、いわば当たり前のことを、理屈でなく、全存在で受け止めるようになるであろう。
更にそういう苦しみや悲しみと共にどうやって暮らして行ったらいいか、という術を見につけ、場合によれば、ニーチェのいう「運命への愛」amor fati すら自然に心の中に芽生えてくることもあろう。それは苦しい「荒野」での道程である。

シュプランガーは言う。
「現世的な諸価値の肯定が決然たる否定によって断ち切られる時がある。そういう時期にはすべての生命的エネルギーは内面へとむけられ、破壊された世界をより見事に、より美しく築きあげる。この難行苦行の時期は荒野における試練のごときものである。大きな力が蓄積され、やがて突然再び解放されて地上の世界に流れ出し、新しい意味でこれを所有するに至るのである。」

この「荒野」の時期が、ひとの一生の中で、ここにいわれているような大きな建設的な意味を持ちうることは、多くの人々の伝記が裏書している。










ここで注意にひかれることは、パールバックが「中心をほんの少しでも自分自身から外せるようにできるようになった時」悲しみに耐えられる方向に向かったという点である。
つまり自分の悲しみ、または悲しむ自分に注意を集中している間は、悲しみから抜け出れないということである。











もし、人間が何らかの病、ことに人格や知能の病のために、またはらい病の神経痛ような、いてもたってもたまらないような苦痛のために、普通の精神状態を奪われ、単なる「あえぐ生命の一単位」になってしまったらどうであろうか。…こういう人には、もはや生きがいを求める心も、それを感じる能力も残されてはいないのではないか。こういう人にもなお生きる意味というものがありうるのであろうか。
これこそ生きがいの問題を抱える者にとって、何よりも一番痛い問いである。その痛さをひしひしと身に覚えずには彼らに接することは出来ない。彼らは暗黙のうちに、この痛烈な問いを投げかけているからである。
しかし、この問いに対してはっきり肯定の答えをなし得ないのならば、精神病者を無用の存在として殺戮した、あのナチスの考え方に戻るほかない。




人間の存在意義は、その利用価値や有用性によるものではない。野に咲く花のように、ただ「無償に」存在している人も、大きな立場からみたら存在理由があるに違いない。自分の眼に自分の存在の意味が感じられない人、他人の眼にも認められないような人でも、私達と同じ生を受けた同胞なのである。もし彼らの存在意義が問題になるなら、まず自分の、そして人類全体の存在意義が問われなくてはならない。そもそも宇宙の中で、人類の生存とはそれほど重大なものであろうか。人類を万物の中心と考え、生物の中での「霊長」と考えることからしてすでにこっけいな思い上がりではないだろうか。

現に私達も自分の存在意義の根拠を自分の内には見い出しえず、「他者」の中にのみ見いだしたものではなかったか。五体満足の私達と病み衰えた者との間に、どれだけの違いがあるというのだろう。私達もやがて間もなく病み衰えて行くのではなかったか。

現在元気で精神の世界に生きていると自負する人も、もとを正せばやはり「単なる生命の一単位」にすぎなかったのであり、生命に育まれ、支えられて来たからこそ精神的な存在でもあり得たのである。また現在もなお、生命の支えなくしては、一瞬たりとも精神的存在で有り得ない筈である。このことは生きがいの喪失の深淵にさまよったことのある人ならば、見に染みて知っているはずだ…
これらの病める人たちの問題は人間みんなの問題なのである。であるから私達は、この人達一人一人とともに、たえず新たに光を求め続けるのみである。

(1966年)1443327284429



老いの心と臨床 竹中星郎





老年期はとりわけ精神的側面と身体的側面の相互の関連が大きい。近年の医学の進歩は、身体的健康や慢性疾患の予防・管理の知識を増大させ、救命や生命維持の技術の飛躍的発展をもたらした。その結果、人口透析や心ペースメーカーによる生という大きな福音をうむ一方で、「医療技術に管理された生」のもとでの精神的な問題を生み出している。

医療技術の発展は死を阻止し生命の維持はもたらしたが、人間としての生までは保証していない。

老年期とは、生物学的には「成長」から「成熟」に達したものが、「退縮」の経過をとり始めた段階である。老化とはその過程をさす。







往々にして老年者の話は冗長で迂遠である。あることを説明するのに、それに関連する事柄のすべてや経緯までを語りだして収集がつかず、果てしない独白になることもある。
このような場合でも本人が訴えようとしている中心のテーマはこれだと把握するまでは、筋道立たない部分や矛盾することについて、やたらと問い詰めたり矛盾を指摘して話の腰を折らない。全貌をつかむまで待つこと、矛盾や誤りはその後に指摘する。そのためには老年者のペースに合わせることをこころがけるべきだが、面接を仕切っているのは治療者であることは言うまでもない。







昔の自慢話や苦労談などの懐古的傾向は、現在あることの証が、明日への希望ではなく、過去の自己像にすがるようになったことの象徴的な姿である。だが、老年期とは、自らの拠り所である役割や家族との人間関係、苦労の染み込んだ家や故郷、そして自らの身体や精神の機能の喪失の時期である。








多くの老年者は老年に至るさまざまな生活経験の中で、現在の喜びが悲しみに反転したり、成功が得てして永続するものではないこと、人間関係のうらおもて、苦境を耐えるたことの意味などを見に染みて体験してきている。従ってある事象についてひとつの評価に偏ったり、一面的な判断で誤りをおかすことを警戒する。多価的な物の見方に立ち慎重で保守的に構える。 
だが、このことは裏返すと、自分の体験や感情にもとづく判断に頼りがちで、ことに若い者に対しては客観性や合理性よりそれを優先させようとする。これは、頑固とか一徹とかいわれる。さらには懐疑的、自己中心性、固執性などの否定的評価にも通じている。








「無感情」は、社会に対してだけではなく、家庭においても家族の動向などにまったく無関心で、喜怒の感情を表さず、ひたすら自分の殻の中に閉じこもって生活する姿である。
また「老年隠遁者 senile recluse」は対人接触を回避してひとりの生活に引きこもろうとする。自閉的であり、嫌人的である一面で、狭い限られた人間関係を保っていて、そこでは何ら偏屈でないことが多い。








時間体験は現在をどう生きているかによって短くも長くも感じられる。すなわち目標を持って努力したり仕事をしている老年者は時間の経過を早いと感ずる。一方、時間を受動的にしか生きないものは退屈でのろく感じる。
また未来への時間感覚については、積極的に時間を生きようとする老年者にとっては先のない切羽詰まった短いものに感じられ、若者にとっては計り知れない無限と感じる。
「測られる時間に人は老い、生きられる時間に人は熟す」E.ブラン











老年期に精神症状を呈す者の大半は精神病の既往はない。思春期・青年期と中年初老期を破綻することなく通過してきた精神的平衡を保つ力の強い人たちが老年に至って破綻するのは、老年期の精神的負荷の大きいことと、脳の脆弱性によると考えることができる。










老年期におけるうつ病では心気妄想が多い。その極端なものは否定妄想である。これは現実的な身体的衰えや間近な死への不安にさらされていることからも十分に理解できる。否定妄想、コタール症候群は「自分の血管が腐ってしまった、詰まっている」「脳や内臓が溶けてなくなってしまった」というような体感異常を伴う心気症、それが拡大して「自分はもはや生きてはいない、ゆえに死ぬこともできない状態で全世界の責め苦を永劫に背負っていかねばならなくなった」という途方もない不死観念を懐くに至る。

また近年、うつ病の被害妄想として代表的な心気、貧困、罪責妄想にかわって迫害妄想が多くなってきたという指摘がある。うつ状態における迫害妄想は、統合失調症に認められるような世界変容感に基づく自我の危機といった切迫感は薄く、罪悪感が関与している。その主題は日常的な人間関係や生活状態を反映したものが多い。体系化されることは少なく、妄想発展はほとんどみられないことが特徴である。










妄想とは「病的な誤った判断にもとづく観念の虚構」と定義されている。
妄想の条件として
① ゆるぎない主観的な確信
② 客観的合理性や論理的明証性を拒む訂正不可能
③ 持続性があり、内容は非現実的である
が挙げられる。











うつ病の三大妄想とは心気、罪責、貧困妄想だが、老年期ではとりわけ心気妄想が多いこと、抑うつ的な迫害妄想が増加していることはすでに述べた。また抑うつ妄想においても内容は日常的次元に限定され、神秘的、超越的色彩はない。内容は非体系的であって、その時々によって変化することが多い。

















ところで、老年者にとってよい環境とは、快適な住環境とか豊かな生活といったパラダイスではなく、現在の生活での安心である。家庭での家族間の葛藤がすべて解決されなくても、多少とも家族の態度がかわるとか、事態は何ら変わらなくても自分の苦悩の理解者を得ることで現状の生活に復帰することができる。すなわち老年者の診療では、医療がすべてを解決しうるわけではないこと、また家族に対して、老年者と生活するのにまったく問題がなく、精神的負担もない生活を求めることは幻想であるという観点を共有できるかどうかが治療の方向の分岐点になる。家族の考えや態度によって治療のゴールは変わってくる。










治療者に求められるのは、脚色してまで自らの悲哀を語る患者を受け止めることであって、いたずらに事実関係の調査に奔ったり、小手先の解決をはかったり、正義感から審判者たることは慎む。挫折体験や葛藤状況をあえて知ろうとないことも必要である。それは解決しないような深刻な状況…本人は心気症や不眠に悩んでいる方が、その背景に気付くよりましなこともある。何でも知ろう、知らしめようとすることは治療者として自戒すべきであろう。





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「もう、うんざりだ」自暴自棄の精神病理 春日武彦

自暴自棄と称される振る舞いは、損得勘定からすればどう考えても奇妙な筈であるが、自分と他人が同義であるならば、むしろ自分を攻撃した方が手っ取り早い。ましてや無意識レベルならば、自暴自棄こそが「お手軽」ということになろう。怒りが自分に向けられることはちっとも珍しくない、という次第なのである。





悪いと知っていることと、にもかかわらず悪いことを実行することの間には、自分を騙すというプロセスが挟まれる。「こんなこと誰だってやっているさ」「ゴミ箱が設置してないのがいけないんだ」「ちょっとくらい、いいじゃないか」等々。おかしな理屈を持ち出して言い訳を図る。口に出したら、明らかに説得力を欠く。だが胸の内で呟くぶんには、その程度で十分なのである。つまり自分自身に対してはおそろしく寛容なのである。そのくせこうした連中に限って、往々にして他人には正論を振りかざして不寛容を示す。その自己中心ぶりが最低ということになる。

…そして多くの輩が、道にゴミを棄てるなというのは正論であるがそんなことにいちいち目くじらを立てる奴は洒落の分からん奴であるかごとき論法を、「世間」「大人」といった曖昧なキーワードで通用させようとする。卑怯なのである。

…紙屑をこっそり道に棄てたという行為に対して、人間の弱さや情けなさを見出して苦笑いをするような大様な態度のほうが、精神科医としては適切ではないのか。目くじらを立てるなんて、狭量ではないのか、と。わたしもそう思うのである。だからあの初老の男性も、もう少しぎこちなく棄てれば良かったのである。だが、あまりにも棄て方にソツがなかったので、当方としても不快に感じたのである。あのソツのなさは、卑怯さにおけるベテランぶりを端的に示していたのだから。








ここでわたしが言いたいのは、人間はついダブルスタンダードを作って他者を選別するようなことをしたがる存在だということである。必ずしもそれが悪いわけではない。優遇されてしかるべき人間は居るし、それを目指すことが努力のモチベーションとなるかもしれない。得体の知れない人間はとりあえず排除しておいた方が無難だし、排他的だからこそ価値が高まる場合も多い。
クレイマーは実にうんざりさせられる人たちではあるが、彼らの心情には我々と共通する部分が思った以上に多い。勿論わたしはクレイマーかわ大嫌いであるが、そのくせ、もし「神」が存在したら、わたしは自己に与えられた運命に対して神への執拗なクレイマーと化すに違いない気がするのである。








…人間は気恥ずかしさや悔しさや絶望に押し潰されそうになる機会は決して珍しくない(それが本人の責任か否かはともかくとして)。だがそのような事態に直面したからといって、すぐに反撃したり自暴自棄になったり虚脱感に陥るわけではあるまい。体勢を立て直そう、自己正当化を図ろう、味方を得ようと行動を起こす。すると大概は、周囲の誰かが(ときには苦笑しつつも)とりあえず慰めたり頷いたり肯定したりする。そこでまあなんとか本人も踏み堪えられるわけである。

…失恋でも失望でも破産でも大失敗でも、それでもなんとか堪え忍んでいく人もいれば自殺してまう人もいる。その違いは何か。当人の性格やタフさの度合いが影響するのはもちろんであるが、もしかしたら第二段階で他者から自己肯定をしてもらえなかった場合に、いきなり自暴自棄への危険度が高まるのだろうと思わずにはいられないのである。何かのエピソードがあって、だからそれがスイッチとなって自棄や自殺に直結するといったダイレクトな理解は現実をあまりに単純化しているのであり、実際には、第二段階の結果が運命を左右することが多いのではないだろうか。わたしの臨床経験に照らしても、そんな気がするのである。












絶望や悲しみや苦しみは、自殺の明確な動機になり得ると世間では考えられている。そしてそのような動機がかなりダイレクトに自殺という行動に直結するように捉えられているのではないだろうか。失恋のショックのあまり取り乱し、そのままビルの屋上へ駈け上がって飛び降り自殺を図るとか、そこまで直線的な振る舞いではなくとも、どこかそれに近い直接性を漠然と想像しているのではないだろうか。
大概の場合、自殺はいきなり実行するものではなく、まずは「自殺を思いつく」というところからスタートする。当たり前の話ではあるが、これは相当に不気味なことである。
ときには何年もの間ずっと心を自殺モードにしたまま日常生活を送り、ある日突然この世から姿を消す人もいるのだろう。自殺は決意や決行の前にまず「自殺しようとしているわたし」といったありようを思いつき、その考えを身に纏ったまま何食わぬ顔をして生活を営むのである。そのとき当人にとって、世界は今までとは違って見えるのだろう。価値観や物事の意味合いも変貌するだろうし、思いもかけぬものが異様な美しさをこの俗世間で放つようになるかもしれない。いずれにせよ、「自殺しようとしているわたし」が生きている世界の特異さを見落としてしまっては、我々は粗雑な因果論でしか世界も人生も理解できないことになっていしまう。

…理由の苦しさや経緯は脇に置くとして、多くのケースにおいて自ら死を選ぶといった発想には精神の純粋性とか美学的なオーラを頭のどこかに自覚している場合が多い(精神科医としての経験から述べているのである)。というよりも、そのようなピュアなものに結びつけなければもはや立つ瀬がないところに当人が追い込まれているということであろう。

…今、自分は自殺の決意という大変な秘密を胸に秘めたまま、いつもと変わらぬように日常を送っている。そこには深い絶望や悲しみや敗北感があるのと同時に、隠れん坊で押し入れに潜んだまま息を殺しているような不思議な楽しさを持っているのではないか。













自殺とはまさに自暴自棄の究極であろうし、自己へと向けられた(やり場のない)怒りや攻撃の形態なのであろう。さらには虚無への憧憬も大きく関与しているのかもしれない。



…自殺は、残された人々に対して暴力的な性質を帯びている。それゆえに、精神が「自殺を決意したわたし」モードに入ることには屈折した喜びが伴うのだろう。他人を欺いたまま自殺という秘密を心の中で弄ぶことには、優越感に似たものが生まれるだろう。それが、自殺を思いつかざるを得ないほどの悲しみや苦しみをいくぶんなりとも和らげる鎮痛効果を発揮する。当人へ同情しつつも自殺に背徳的なものを感じ取らずにはいられなのには、相応の訳があるということになる。

…それにしても、「きっぱりと死んでみせるか、臆病風に吹かれて逃げ出すか」という二項対立では、自殺の実行に付随する痛みや苦悶や恐怖を払拭する脳内モルヒネのようなものだろう。巧妙なものだと感心すべきか、余計なことだと眉を顰めるべきか。













…しかし現実には、せいぜい呆れられ視線を逸らされる程度の影響力を発揮しただけだったということではないのか。
そんな風に思考しているうちに、わたしは苦笑しつつも共感を覚えたくなるような気分になってきたのだった。サラリーマン氏には彼なりの屈託があり、やり場のない腹立ちがあったのだろう。それを可能な限り穏当なパフォーマンスとして表現したら、電車の中のバナナ食いといった頓狂なことになってしまったのではないか。
自暴自棄で自殺をする人がいることを思い合わせると、せめてバナナにとどめておいて良かったねと言いたくなる。彼は今ではお爺さんの筈である。好々爺になっていることを祈らずにはいられない。














焦燥感に駆られ、苛立ちに突き動かされ、性急な言動に走って自滅しかねない弱さを我々は抱えている。自己肯定するよりは自己否定をするほうが瞬間的には快感がある。そんな厄介な性質がヒトの心には宿っている。












深呼吸と、気持ちを共有してくれる隣人。換言するなら、事態をいったん棚上げしてしまえる飄然さと絆。この二つが、これからの我々にはますます必要になってくるに違いない。もちろん本文で述べたように喜びや感動の断片がもたらす力の重要性は、いくら強調しても足りない位である。

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うまく本音で話せる本 和田秀樹


ところが、自分のホンネがどこにあるのか、あるいは、ホンネというものがあるのかないのか、それすらもわからない人というのは、かなり厄介です。

カウンセリングでホンネが言えるようになってくると、少しずつ、お仕着せではない自分の感情が持てるようになってきます。
人間的な情が持てるようになれば、言葉にも厚みがでます。相手に合わせただけの薄っぺらい言葉ではなく、リアルな重みを感じる言葉になっていくのです。そうしたことの積み重ねによって、人とのコミュニケーションがスムーズになっていきます。

そして、相手にもホンネがあるとか、ホンネとタテマエは違うということが実感としてわかってくると、「人のことが怖い」という感覚も薄らいでくるのです。自分だけが邪魔な人間ではない、人に知られてはいけないと恐れる必要はない、と自己肯定感が持てるようになるからでしょう。
もちろん逆もあります。相手にホンネがあるということを知ってしまったがゆえに、コミュニケーションが出来なくなってしまう人もたまにはいます。

しかし、一般的には、ホンネとタテマエの違いが理解できれば、自分だけが邪悪な人間ではなく、相手にも隠されたホンネがあるはずだとわかってきます。自分のホンネを打ち明けるばいいのにべきかどうかの判断もできるようになってくるものです。

  




人間社会に生きる以上、自分勝手、好き勝手に生きられるわけではありません。タテマエがないということはありえなく、その対極にはホンネの世界もある。片方だけでなく、プライベートな場ではホンネで相対するとか、両方をうまく使っていかないと、人間本来の心情というものは通いません。
今の日本人は、その辺りの能力が、かなり低下しているような気がします。自分のホンネまでわからなくなっているようでは、相当の重症です。











真性の失感情症のレベルまでいかなくても、人生を味気ないと感じるとか、生きていることにリアル感がないとか、このごろワクワクしたことがないといったレベルの人であれば、なんとなく自分はおかしいのではないかという気付きはあると思います。

ただ、そういう人は軽い怒りと重い怒りの区別がつかず、怒るべき重い怒りを軽く見て押さえ込みます。怒りはどんどんたまって、コップから水があふれる寸前のような状態になったあげく、ささいなことでため込んでいた怒りがあふれ出し、急に激昂します。
こうしてトラブルになったり、怒りを大爆発させて取り返しのつかないことになったりする場合があります。

自分の感情がわからないといっても、当人には、そのわからないこと自体が認識できていません。周りが怒っていることなら、自分も怒っていいとわかるけれど、それは自分自身の怒りではない。自分のことになると、どう表現したらいいかわからないのです。そのため、カウンセリングなどによって、「怒ってもいいんだよ」という風に背中を押してあげる必要があるのです。







問題は、そうした自分の感情を、自分自身で認識できない、理解できないことです。
よく言われるところの「あばたもえくぼ」「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」といった、好きな人のいうことなら何でも良く聞こえ、嫌いな人のいうことは何でも悪く聞こえる、といったことも起きてきます。

そのこと自体よりも、誰が言ったかで決めてしまう場合も少なくありません。部長が言ったことは何でも正しくて、部下が言ったことだと正しくない。
内容的には同じことを言っているのに、発した人によって違った評価をしてしまうのですが、これは特に珍しいことではありません。社会心理学では、こうした傾向を「属人思考」といいます。

このように、人の判断や評価には、感情的要因が大きく作用しているのです。
それだけに、自分の感情の状態を正確に把握できていないと、まともな判断や評価ができず、時には痛い目にあわされることにもなってしまいます。








国語教育で文法・語彙と感情を教えていたのですが、今はその両方とも崩れてきてしまっています。
また、本を読むことも自分の気持ちや他人の感情を知る練習になります。昔の高校には古今東西の名作や哲学書を必読書として読むトレンドがありましたが、いまはほとんどなくなりました。若者向けの本はアニメ調のイラストを使ったライトノベルとなり、もはや漫画ですら、昔ほど売れていません。
こうしたことも、いまの日本人の感情機能の低下と、無関係ではないでしょう。






極端にわかりやすいのが、医者の世界です。大学病院などでは、医局制度といって診療科ごとに教授を筆頭とする組織があります。かつては医局が人事権を握っていたので、教授にペコペコしている者ほど階級が上がっていく傾向かありました。
そうした人たちは、自分が教授になった途端傲慢になり、自分をチヤホヤしてくれるイエスマンだけで周囲を固めたがります。
教授が威張る医局の医師は、たいてい患者の評価は良くありません。人間、上から威張られていると、今度は自分が下へ威張るものです。
そういう医局の医者は患者に対して「診てやっているのだから、オレのいう事を黙って聞け」といわんばかりの横柄な態度を取ります。そんなEQの低い医師に、病に苦しんでいる患者の気持ちなど理解できるはずがありません。
反対に、教授の腰が低い医局の医師は、たいてい患者にも腰が低く、評判もよいのです。
EQ能力が低い者は社会では成功できないといわれますが、日本の場合、官僚と学者と医者の世界だけはそうではないので、EQの低い人が多いのも納得できます。







自分の感情やホンネを出せなくしているひとつの要因は、仲間はずれに対する極端な恐怖心でしょう。仲間はずれにされたくないため、自主規制が働くのです。
親友よりメル友やフェイスブックの友達が多いほうが上という文化では、広く浅く友達を持とうとすれば、どうしても自分の感情やホンネは抑制されます。
自分なりの確固とした意志や気持ちが無いため、仲間から外されると、自分の拠って立つ場を失うのです。それは自分の存在を否定されたに等しい。そこに多数による恐喝や暴力といった抵抗できない力が加われば、自殺に発展しかねません。

いま、学校はとても危険な構造になっていると思います。クラスの仲間と先生に嫌われないことが、子どもが学校を「生き延びていく」ための欠かせない要件となっています。
こうした結果、親が子どものホンネを頭から否定するのと同じで、世の中にはタテマエとホンネがあって、その使い分けが重要なのに、それもわからなくなっている子どもが増えています。
何でもタテマエに従っていれば大丈夫とばかりに、自分では何も信じない、感じない、考えない人間が社会にどんどん排出されていくのです。

感情機能が低下すると、共感力も洞察力も低下します。自分の気持ちがわからない人に、他者の境遇を思いやって同情することなど、できるわけがありません。
感情とは完全に自分だけのものであり、共感とは自己認識の上に成り立つものだからです。自分の感情がわかっている人ほど、他者の気持ちも理解できるのです。


普段からホンネが言えて普通に感情を出せている人は、感情表現が適切で、怒ってもここまで、泣いてもここまで、という自分の感情のレンジ(幅)の中で怒り、悲しむことができます。

ところが、今の失感情的な人たちは、自分自身の適切範囲がなく、感情が極端から極端に振れるところがあります。
自分の身になにかが起こっていても、個人的なことでは感情が生起しない。みんなが怒っているのを見て、自分も怒らなければいけないのかなと思う。
そして、周囲の感情が高揚すると、ある種の同調圧力が働いた結果、今度はそれ以上に盛り上がってしまう。そういう時には、怒っていない人に対してまで、率先して怒りを向けるようになる。
まったく怒っていない人が、急に極端に走ることがあるのです。ゼロかマックスかで、中間がすっぽり抜け落ちているのがその特徴。危険な時代になっているように思えます。






失感情的な人が、自分の感情を表現したり、ホンネを言ったりすることが出来るようになるには、そのための訓練、経験の積み重ねが必要です。
そこでまず意図的に試してほしいのは、「何か違和感はないか」と思いを巡らせることです。
そこで不満や怒りを感じたとしても、いきなりそれを表に出すことはやめましょう。
違和感や不審を感じた時は、それを手帳などに書きとめておいて、後で何故違和感があるのか、どこが不審なのかを考えてみます。
一旦、立ち止まって自分自身に問いかける習慣を見につける事によって、自己認識が出来るようになっていきます。
何も思い当たらず、感情の動きがなかったという場合は問題です。
その時に、自分は何故悲しくないのか、なぜ涙が出ないのか考えてみることです。









自分が思ったり感じたりすることは、ひどい感情でも、冷淡でも、腹黒くでも、どんな感情でもいいのです。周囲に過剰反応してしまう人は、これまで感情を抑制し続けてきた人です。そのクセをはずさなければなりません。
人はどんな感情を持ってもいいのです。あなたの感情を、他人もあなた自身も責めるべきではないのです。
よく誤解されがちですが、人間性といったときに、ヒューマニズムなことだけをイメージしますが、そうではありません。腹が立った時には怒り、好きな人を愛し、うらやましいと妬み、うれしい時には喜ぶというのも人間性なのです。
誰にでも優しくて全然怒らないのが人間性と定義してしまうのは危険ですし、もしそんな人がいたとしたら、やはり不気味だと思うのです。

フロイトの考え方では、幼児性欲のようなふらちな欲望やマイナスの感情は誰にでもあるし、患者にもあって当たり前なのだと自覚させ、自覚することによって、理性でそれをコントロール出来るのが健康な人間ということになります。
要するに、悪感情を持ってはいけないのではなく、理性でコントロールできず、相手を殴ってしまったり、怒りをぶつけてしまうことが不味いのです。
また、悪感情をすべて否定し、感情を普段から出さないようにしていると、喜びの様ないい感情まで表現が下手になってしまう、場合によってはできなくなってしまうことがあります。
感情を上手に表現して、理性で上手にコントロールできる方が、豊かな感情生活を遅れるし、人間としても成熟していると言えるのです。





では、日常生活や穏やかなところにある喜びを感じられない人はどうしたら良いでしょうか?
答えは「感じようとすること」です。
何事も見ようとしない人には見えません。気づこうとしない人には気づかないのです。1日の出来事を書き出して、その時々をどう感じたのかを思い起こしてみると良いでしょう。意外にも多くのことを毎日感じているはずです。














心を変えるのは困難だから、行動を変えていこうというのが、行動療法です。行動療法の基本は、いくら悪いことを考えたって、ちゃんとした行動ができればいいのではないか、という発想にあります。
電車に乗るのが怖かったら、怖くてもいいから電車に乗ればいいじゃないか、というわけです。
実際には、行動が変わると、心も変わるのです。
心から変えようとするのは難しいから、先に行動から変えていこうというのが、行動療法の基本となります。


アメリカでは保険会社からの強い要請で、心理療法にお金と時間をかけないのが一般的になっています。日本のように、長期にわたって精神科に通うというのは、よほどの金持ちでないとできません。そこで、すぐに効果が望める認知行動療法が盛んに行われています。
「あれこれ考えすぎずに、まず行動してみる」
「自分の感情やホンネを口に出してみて、考え方を修正していく」
これが大切なのです。












アサーティブネスとは、自己主張とか自説の表明などと言われますが、大切なのは、相手の気持ちを尊重しつつ、自己の感情や要求も対等に表現することです。相手優先でもなく、自分優先でもない、対等で率直な表現が出来るようになることを目指すのです。
一方通行的な自己主張ではなく、相手の言い分や要求などを聞いたうえで、自分にも言い分や要求があることを伝えるのが、本当の意味のアサーティブなのです。
逆にいうと、相手の言い分もちゃんと聞いていれば、自己主張をしても、それほどの不快感は与えなくて済むということです。

アサーティブのように自分を上手に出す方法はある、ということを知れば、仲間はずれや反発を恐れてホンネや感情を出すのが怖い、という思いが軽くなるのではないでしょうか。
例えば、「生活保護の奴らはとんでもない、甘えているだけだ」といった批判が会話で話題にのぼったら、私ならこんなふうに言ってみます。「私の患者さんにも何人か生活保護を受けている人がいて、自分たちも切られるんじゃないかとすごく心配そうにしていた。やはり、なくなったら困る人もいるんだろうね」
こうした言い方をすれば「生活保護なんて間違っている!」と、はなから全否定するよりは、印象も違ってくるでしよう。
最初は、「そうはいうけどさ…」などと小出しにしてみてはいかがでしょうか。











タテマエという言葉にはあまり良くないイメージがあり、自分の意見をタテマエだと言われることをみんな嫌がります。テレビの討論番組でも、そう言われて、必死になってタテマエではないと否定する場面を見かけます。
社会はタテマエで動くという面があるのも事実です。そして、ホンネとタテマエを使い分けて生きるということが必要なのです。

物事は多面的なものです。ホンネとタテマエを使い分けることによって無用な衝突を避けることが出来るという面もあるのです。

もう、ホンネとタテマエの使い分けに罪悪感を持つのはやめましょう。
世の中はそのように出来ているということをまず、受け入れましょう。大切なのは、自分のホンネを殺さないようにすることです。

差別はいけないというタテマエは、誰もが承知しています。しかし、人間社会では、差別「感」は絶対になくなりません。それを表に出しても差し支えない場合と、出せない時があるということをわきまえることが大事なのです。

ホンネでは弱い人におカネをやりたくないけれど、でも、そういうことは面と向かって言えないから、ズルしている少数の人を取り上げて、正論というタテマエをまとった形で間接的に叩く。
このようなホンネのねじれたタテマエに巻き込まれないよう、自分のホンネはしっかりと持っていたいものです。
いまの日本社会は、社会全体が失感情的になっているせいか、これほど同調圧力が強く作用しているのに、抑圧感を自覚できない人も多いのではないでしょうか。
人の判断は、感情に左右されやすいものです。無自覚な「つくられた感情」に注意する必要があります。












「かわいそう」という感情は、そういう人を自分の目で見た事があるかないかで大きく違ってきます。

かわいそうな人、貧しい人、弱い立場の人を見た事がないから同情できないというケースもありますが、それとは反対に、過剰に同情してしまうケースもあるのです。

過剰に同情してしまう人たちは心根が綺麗な人たちだから、余計に極端に走りがちです。この極端から極端に走るところが、日本全体が失感情ではないかと思う所以なのです。











実は10人が10人反対することなど、人が考えている程にはありません。
例えば原発ひとつとってみても、震災直後に再稼働反対、脱原発と盛り上がっていた時期ですら、二割の人は「そんなことをしたら電気代が上がってしょうがないよ」と言っていたのです。

ホンネを出すことを怖がる人は、嫌われることへの危機感ばかりが強くて、好かれることの喜びをあまり考えていないのではないでしょうか。
例えば9割の人が反対するような事でも、意見が一致する1割の人とはいい友達になれるはずです。
人間関係とは9割に好かれようと思うことではなく、その1割を大事にすることです。考えてみたら、一億二千万人も住んでいる国で1割もいればすごいことです。
ホンネを出すというのは、ある意味、あなたと合う友達を見つけるフィルタリングの役割を果たすかもしれません。













対人関係など、どうも生きることがうまくいっていないという人にとって、最も大事なのは、自分が何かしらのホンネを出した時に、相手から肯定されるという感覚です。

感情のレスポンスの関係で言えば、9割の人が反対した時に、その9割を見るのではなく、「君のいうことはわかる」と言ってくれる1割(実際はもっといるでしょうが)のほうが重要なのです。
9割の方ばかり見ていると、いつでも「みんながいいと思うだろうな」と思う事を予想しながら行動を取らなければならなくなります。 
その結果、周囲に合わせることばかりに腐心して、自分のホンネを圧殺することになり、ストレスを溜め込むだけになってしまいます。

普段はタテマエ中心であってもホンネが言える相手を1人でもつくっておくことで、生きていくのが楽になるものです。

まずは、自分の感情を出し、ホンネを言ってみることです。
いつまでも臆病なままでいても、生きづらさは解消されないし、それによって得することは何もありません。

極端に暴発させたりすれば別の話しですが、感情を出すことは、むしろ良い関係が深まることのほうが多いはずです。そのへんの調整は、経験で覚えていくほかありません。

深い人間関係を避けていては、感情を磨くこともできず、感情移入も閉ざされて、生きている実感もなくなります。


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