2015年09月



自分が「たまらないほど好き」になる本 ジョージ・ウェインバーグ著 加藤諦三訳 

6章〜



しかし、ここであなたが批判の受け止め方を学ぶのは、あなた自身のためにも、ひいては他の人のためにも大切なことです。

誰だって間違えるものです。大切なのは、いかにして間違えるか(どうて間違えたのか)です。

これを知らなければ、あなたは批判を避けるようになります。そして何かを避けばいいのに始めるやいなや、あなたはまた、それを恐れ始めることになるのです。

批判されることを怖がったり怒ったりすることは、良いアドバイスが聞けなくなることです。また真の友情を壊してしまうこともあります。











…自分たちの内気さを自分自身で創造していたのです。内気に従って行動することにより、内気を想像し、さらに内気を創造していったのです。すべてのクセと同様、それは彼らにとって自然で、避けがたいもののように感じました。

「とにかく人に会いなさい、人と話しなさい」

内気から脱却するなら、あなたは人間的な関わりを求めなければなりません。そして出来る限りそれを得ようと自分に強いなければなりません。

あなたは内気のため色々と失って来たのです。そしてあなたは、人々は恐ろしいものだという考えを強化してきたのです。また自分は恐ろしい世界に住んでいるという考えを強化してきたのです。


「すべての人々が共通して持っていることを考える」

人間のもろさ、欠点に感じやすいこと、死の恐怖など、共通して持っていることなら考えなさい。誰かが、どんなに意思が堅固で強くみえても、あなた同様弱みはあるのです。




「自分の強さと興味を評価する」

あなたがうまくやっていることに関連して、人に会うようにしなさい。そこであなたがどう行動するか気をつけていなさい。



私たちが打ち勝ちたいと思っている内気は、自分が興味を感じる人々から引っ込んでしまう内気です。

逃げるのをおやめなさい。
人々に合える場所におもむき、そこに居て彼らに話しかけるのです。

問題なのは、話す勇気を求めることではなく、勇気を求めて話すのだ、ということです。









7章

自分をすきになるための8つのアドバイス


「1人でいることを楽しむ」方法を学ぶ

「人々を個々人として見、そのユニークさを楽しむ能力を養う」

「人生を隅から隅まで楽しむ力を養う」

どうやったらもっと人生を楽しめるでしょうか?まず、物事をするペースを落とすことです。自分のしている事をじっくりと味わうために時間を取りなさい。自分の周りの世界に出来る限り関わりを持ちなさい。いつも傍観者の立場を取っていたら、自分自身をそう重要ではないと感じてしまいます。


「皮肉屋にならない」

シニシズムは好ましくないだけではありません。それはあなたに、自分自身も嫌いにさせるように働きます。ほとんどのシニシズムが、自分の誤りを合理化するものとして始まっています。

私たちは皆過ちを犯すものだから、わざわざ皮肉を言ってその過ちを合理化する必要など無いと認識しなさい。そして、自分に希望を持てるような方法で行動を始めなさい。


「自分にとって、とても重要なことに関し、ある人達と同意出来ない場合、彼らに立ち向かうことを恐れない」

「感情移入の力を発達させるように努力する」

「良い友達のために声援を送る」

「最後に、この自己創造の原則があなたの人生すべてについて応用できることを忘れない」
















まず、こんな「自己規制」を取り外すこと


「いつも最後の最後で、自分の行動にブレーキをかける」

「極度の自意識過剰」

「自分は不運だと感じている」

「周囲の状況を気にしすぎる」

「自分の身体が障害になっていると感じる」

「まるで他人事の非現実感」







何をしようとしているにしろ、それを放棄してはいけません。ことに、自分がやり損なうと思い込んでいたものなら、絶対に放棄してはいけません。

あきらめることは無能力感を強化します。やり続けることだけがあなたを成功に結びつけてくれるのです。

成功する可能性を秘めている自己のイメージを拒絶するくらいなら、たとえ不様であっても行動に移すほうがいいのです。

そして自分のすることをけなさないこと。自分を規制する人々は、他人が自分を笑っていると思いがちです。しばしば彼らは、他の人が自分を笑う前に、自分で自分をあざ笑うのです。まるで仮想の相手の心をなだめようとしているかのように。










前向きな自分、強い自分、そして「勇気ある自分」へ!


あくまでも自分の夢に忠実に、「下手な遠慮」はしない

今日からは、自分には夢や野心などない、というふりをするのをやめなさい。自分の望んでいることに素直になりなさい。ほめてくれた人に素直に感謝しなさい。










自分は「成功する器」だと信じる

行動を妨げるもう一の一般的な動機があります。それは、成功が、自分の手に負えない犠牲を強いるものではないかという恐怖です。

結果がどうなるかと考えるかわりに、一時にひとつの成功を計画しなさい。もし、やめたければ、いつでも、どんな時点でもやめられることを忘れないでほしいのです。



目標を失ったらいつでも、新しい目標を定めることを目標にしなさい。努力すべきものがなければ、あなたは努力しません。努力しなければ、人生において将来を期待する感覚はしおれてしまうでしょう。









「できるわけがない」と「どうすることもできないの」の2つの言葉は、自己憐憫のわかりやすい例です。

自己憐憫は、そこから歩みを進めるべき最良の場所を考えるかわりに、同じ所に立ち止まって、「どうして自分が」と問い続けることしかさせません。
それは、自分はどうしようもないのだという考えに基づいています。そしてその考えを強化し続けます。受動的なのです。この自己憐憫にとらわれている限り、あなたが自分を救い出せる方法はないのです。

こんなのは決して真実ではないし、立ち直る役にも立ちません。あなたは自分をどうにか「できる」のです。  

ただし、まず自分をあわれむことをやめさえすれば、の話しです。










自分についての真実は何かを知る方法は、できる限りハンディキャップなどないかのように行動する事です。なぜなら、自分がどうしようもない無価値な者として行動するたびに、あなたは、自分には恥ずべき悪い点があるという信念を強めることになるからです。



いつも、あなたに出来ることを探しなさい。うまく出来ることを探しなさい。そして実行するのです。自分は今のままでも価値があるという考えに従って行動すれば、自分自身を信じられるようになります。

とにかく、自分を信じること。そして、そこからさらに自信を深めていくこと。
あなたにはまだ掘り起こされていない、磨けば輝く能力と魅力がたくさんあります。それを見つけてください。自分が「たまらないほど好きになる」ために。



自分が「たまらないほど好き」になる本 ジョージ・ウェインバーグ著 加藤諦三訳 

4章〜




よくある第二の形は、しばしば「反応的抑うつ」と呼ばれているものです。
人生における、何か本当に悪い打撃に対して起こる、はっきりとした長引く反応です。その災難の前まで、あなたは人生は本当にいいものだと思ってきました。ところがもうそれ以降は、人生はまあまあ耐えられるものだとさえ、思えなくなってしまいます。



トラウマ的な抑うつの深みにある人は、自分自身に尋ねてみるべきです。「オレは過去への忠節によって行動しているのだろうか?」と。

新しい楽しいこと強いて自分にさせようとすると、あなたには、それらが不正で、ほとんど不実なことの様に思えてくるのかもしれません。

例えば、彼は、妻が死んだ今、どんな方法でも人生を楽しんではいけないという強い意向があるのを感じています。彼は、妻が墓に横たわっているのと、自分がゴルフを楽しんでいるのとの対比に尻込みしました。

こうした忠節に自分が支配さらていることを知ったら、あなたはその合理性を問うてみなくてはいけません。
あなたの忠節の相手は、本当にそれを望んでいるのだろうか?と。

生きているものを葬ることによって、死者に栄光を与えてはいけません。たとえそれが愛する奥さんであったとしてもです。

もしあなたが、漠然とした罪の動機を確認出来るなら、次の2つを認識してください。

1つ目は、その動機に基づいた行動は、誰の為にもなっていないということです。死者を元に戻すことは出来ないのですから。

2つ目は、いつまでもその動機に従って行動していれば、あなたはいつまでも罪を感じていなければならないということです。











抑うつ状態に入ったら、どんな小さなことでもいい、あなたが抑うつ状態にある時にだけするようなことをリストに書き出してご覧なさい。

抑うつ状態にあるあなたはたぶん、エレベーターで知人に会っても声をかけないかもしれません。あるいはパーティへの招待を蹴るかもしれません。あるいは、普段なら半年もかかる量以上の探偵小説を、家に閉じこもって2週間で読んでしまうかもしれません。あるいは仕事に出掛けないで家にいるかもしれません。あるいは一日中パジャマのままでいるかもしれません。

これらは小さな行動ばかりかもしれません。
しかし、そうかといって害がないわけではありません。これらのことすべては、抑うつと戦うのではなく、引き下がる方法ばかりです。







「自分の外観に構うこと」

身体を清潔にし、見苦しくない服装をしなさい。部屋も綺麗にしておくことです。
それらをずっと続けるのはあなたにとって難しいかもしれません。そしてこれは、たぶんある点ではあまり重要でないかもしれません。
自分の身なりを構うことは個性のしるしです。
もしあなたに余裕があるのなら、気に入った服を買って着てご覧なさい。身なりを良くしようという努力は、そうする理由があるように感じさせてくれます。




「強い感情、特に怒りを抑えない」

あなたは友達が来るといので、何時間も買い物をしたり、夕食の仕度をしたりしたのに、友達が最後の最後になってキャンセルしてきたとします。
不愉快だと彼女に言ってやりましょう。「あら、いいのよ」なんて言わないことです。よく「なかった」ではありませんか。

ひどい扱いを受けてあきらめていると、そのひどい扱いが、特に抑うつ状態の時には特に、自分に相応だと思えてきます。そしていつしか終始そんな目にあうようになってくるような気がしてしまいます。

同様に他人の強い感情も、抑えつけてはいけません。他人を、あなた同様、穏やかで、抑うつされた状態にしようとしてはいけません。

その代わりに、あなたは強く感じること、自分の感情をおもむくままに行動することを学ぶ必要があるのです。







「出来る限り挑戦をする」

自分で正直に何が出来て何が出来ないのかを決めるのです。たぶん、あなたの家族はすすんであなたを許してしまっているのでしょう。「たぶん彼は、私たちと食事する気に慣れないのよ」という具合に。

しかし、もしやってみれば出来ることをあなたはわかっているはずです。もし、他の人が許してくれても、あなたがぶつかることのできる挑戦を避けてはいけません。さらに努力してぶつかれる挑戦から目を背けることを、自分自身に許してもいけません。







「ある一定の期間、自分の問題について話すのをやめる」

抱えている問題を話すことは、しばしば抑うつ状態の人が抑うつを持続させるための、最も重要な方法となってしまうのです。
しかも不平不満以外のことは何も喋らないから、ますます自分の人生には不平以外に語るべき何ものも「ない」に違いないと感じるようになってしまうのです。








「自分の生活を他人の生活と比べない」

問題なのはあなたがどう感じるかであって、誰がより恵まれているかどうかではありません。比較を始めることは、一般的に抑うつが進行している証拠です。

みんなが自分よりいい暮らしをしていると考えれば卑屈になって意欲を失うし、逆なら、オレは今のままでいい、ということになってしまいます。
しかし、変化する事こそ、抑うつを克服できる唯一の方法なのです。








「エネルギッシュで、希望にあふれた人と時を過ごすようにする」

あなたと同じような沈んだ感情の仲間と一緒にいるのは避けることです。これは抑うつにありがちな人がおかしやすい間違いです。
出来ればエネルギッシュに人生を追求しているような人々の間に身を置きなさい。






ポイントは、すべての努力、野心、やり遂げる意欲を絶対に放棄してしまわないことです。
重要なのは、すべて希望という前提に立って行動し続けることなのです。
希望があなたを捨てるのではない。あなたが希望を捨てるのです。

私たちが気楽にしなさいと言うことが、、彼に、すべての努力を投げてしまえ、という言い方になってしまえば、それはひどい仕打ちとなるかもしれません。
 
リチャード・ブリックナーの小説に、ある事故により車椅子での生活を余儀なくされた若者についての物語があります。主人公が付き添い人に尋ねます。
「君は僕には未来があると思うかい?」
すると付き添い人は答えます。
「棒高跳びの選手としての未来ならノーでしょうが、人間としてならもちろんイエスですよ」。











5章

あなたの怒りをしっかりと意識し、理解してください。誰が関わっているのか、その人が何をするのか、あなたがどう感じるのか、その結果はどのようなものか。もしあなたがいつも同じ人に怒りを感じるのであれば、あなたはたぶん、その人があなたを妙にイラつかせるような
特別な何かを持っているとわかるでしょう。



毎日の生活の中であなたをイライラさせる人々に対処する方法のうち、最も重要な第一歩は、まず、自分の感じ方に忠実であろうとする事です。
自分に正直になって、自分の意見を述べなさい。

例えば、もしその人が、あなたに反応の仕方を強いようとしたら、彼が彼の反応をする様に、あなたにも自分の反応に対する権利があることを思い出してください。
例えば、「僕にはその冗談が君ほどおかしいとはおもえないのだが」ということです。

その人に「やめてくれ」と頼む時、彼に対する害意ある動機で言わないように注意しましょう。彼の動機はどうでもいいのです。
あなたは単に、怒りの感情から解放されたくて彼がやめてくれることを望んでいるだけなのです。あなたがそういった感情を持っていて、友人にそれを尊重して欲しいと頼むことだけで十分なのです。

もしかすると、最悪なことが起こるかもしれません。その人が利己的な人でやめることを拒否するかもしれません。ここでやめることを拒否するということは、彼は「あなたなんかがどう感じようと構わない」と言っているのと同じです。
しかし、あなたがどうなっても構わないと思っているのなら、あなたはそのことを問題にしないほうがよいのです。彼があなたを大切に思っていない、ということを発見するのではないかと恐れて、何年も何年も、欲求不満の怒りをくすぶらせているよりも、事実を知ったほうがマシです。

それでもあなたには、その都度、彼に彼の行為があなたを不愉快にしていることを思い出させる権利があります。そして問題が何であるかを認めることは、あなたの怒りを減少させるのに役立つでしょう。もし友達が、その苛立たしい行為をやめなさいとしても、その行為に対するあなたの怒りは減少するはずです。












他人に終始怒りを感じていながらも維持するに値する関係など、たたのひとつもありません。
また、あなたがその怒りの原因を見出し、取り去らない限り、どんな関係もうまくいくはずがありません。


 

もしあなたが、自分では本来、間違っているとか、醜いとか思っている行為を、誰かに気づかって自分に課したなら、最終的にあなたは、非常に嫌な気分になります。

もしあなたが、自尊心を犠牲にすれば、あなたは自分の得たものを楽しむ能力さえ失ってしまいます。






この章の教訓として大事なのは、「他人があなたに仕掛けてくること」ではないということです。

彼らのすることといったら、誘惑したり脅したりして、あなたに何らかのメッセージを提示することだけなのです。
他人があなたにどのような影響力を与えているか、最終的に決定するのは「あなた」なのです。


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自分が「たまらないほど好き」になる本 ジョージ・ウェインバーグ著 加藤諦三訳

しかし、いくらそう願ってみても、この本が
あなたを変えるわけではありません。ただあなただけがあなたを変えられるのです。なぜなら、あなたを創ったのはあなた自身なのですから。

次に挙げるのが、人が自己の人格を創造する過程において、日々作用している基本的な原則です。
「あなたが何らかの行動を起こしたとします。するとその度に、自分のした事の動機となって考えを強めているのです。」

もう一度いいます。いつでも私たちは、自分の感情を自分の行動によって形作っているのです。

彼らは自分自身の行動によって自信を持っているのです。
私たちが時にその作用を認識している例の原則は実は、年中作用しているのであって、それが私たちに及ぼす影響は、これまで知る以上にずっと大きく、連続的であると、この本は言っているわけなのです。

社会が個々人を行動に誘います。しかし各人がそれぞれの未来を創造し、そして経験するのです。もしこの原則を理解すれば、あなたはそういった世情のあやつり師たちの犠牲となりにくくなるのです。

この原則は、なぜある人々か抱く確信が、他人から見ればまったく道理にかなわないものであるかを説明しています。最も訳知りの人でも、ひどく道理に合わないことを信じるようになったり、ある種の行動により、自分の真実を確信したりすることもあり得るのです。

人はまったく自分の力だけで変化しています。古典的な療法もこのことを認めています。それをトラウマの理論といってます。

恐怖に根ざした回避の行動は、恐怖をさらに堅固なものにします。

一時の失敗で、一生失敗するのではないかと恐れないようにしましょう。恐怖の原因となるのは、物事を回避することなのです。失敗した人は誰でも、すぐに恐れるわけではありません。もう一度試みることを回避した人が失敗を恐るようになるのです。

新しい責任を負うというのは、大抵ハッピーなトラウマの典型的な源です。そしてこれはどんな年齢にも起こり得ます。

私はもちろん、他人の評価を無視せよと言っている訳ではありません。しかし、いつでも他人に好かれようとしていると、不安を増し、他人が自分をどう思っているかということばかり気になるようになってしまいます。そして自分が沢山良い所を持っているのに、間違ったことばかりを重んじ、それを他人にひけらかすようになってしまいます。

ある1つの行動に対する動機には、常に2つの要素が含まれています。目的と信念です。信念とはその目的を完遂させるためにこの行動が役立つと信じることです。

子供の時からずっと、実際に首尾一貫した姿勢のままでいることが、どんなに容易であるか、ということをこの例は示しています。原則によると、人間は日々自分を再創造することが出来るようになっていても、同じでいることの方が容易であることは確かです。

一度1つの行動の仕方が採用されると、トラウマによって力ずくで崩されない限り、普通はそのまま残ることになります。その行動を捨てる理由がないと、それはそれ自体で持続していきます。習慣と同じようにほとんど自律的に、「それ自体で持続」します。

私たち自身によって、私たちの自発的な行動によって創造されていくのです。この精神形成、精神維持は、人間の法則に従って行われるのです。その法則は非常に確かで証明出来るものです。
私はこれを自己創造の原則と呼びたいのです。
「原則とは、行動する度に、その行動の裏にある動機となる感情、姿勢、信念を強化しているのだ」ということです。

この原則こそ、私たちの精神生活を理解し、コントロールするための、唯一の鍵である。この原則は私たちが、どうして今日に至ったか、今どんな人間なのか、どうやって変わるかを知る助けとなってくれます。



自分がパラノイアかどうかを見分ける訓練
「停まって、見て、聞く」

自己を守るための何かをする「前に」停まるのです。
私はこの方法を拡大法と呼びます。
まず何か行動を起こしたくなる衝動を我慢し、それをやった場合の想像を自分で膨らませ、拡大させ、よりあからさまにさせるのです。動機が、その偽装を破ってあらわになります。

例えばあなたが新しい鍵を買わないなら、誰かがあなたの部屋に盗み入るのではないかと不安だったら、そう書きとめておくのです。
そして、あなたの恐怖は、あなたが救いをもたらすと思っている行動をやめた時、最も激しいものになるでしょう。やめるポイントは、自分の恐怖を意識することです。一度、自分の恐れているものを知ってしまえば、それに関してどうにか対処出来るのです。

「あなたは、どのような動機となる考えも、どのような感情も姿勢も信念も、それらを強める結果をもたらす行動を止めることによって、弱めることが出来る」


あなたが恐怖に従って行動する度に、つまり自分を守ろうとして行動する度に、「あなたは自分が危険である」という前提を強めています。そして、何も恐れることはないという前提のもとで行動すれば、それは時には、何の行動も起こさないということになることでもあるのです。
もしあなたが、忍耐という前提に立って行動するなら、忍耐は強化されます。弱点や弱みという前提の上での行動は、その弱いという感覚が助長されます。

「人から安心感を得ることを期待しない」

友達に、恋人に、まだ自分は魅力的であるかどうかなどと尋ねるのをやめなさい。
ここで立ち止まって、自分の動機を考えてみることです。あなたは何かを疑っているのではないですか?
その疑わしい気持ちにのっとって行動していたのでは、疑いはあなたから去りません。新しい疑問と、新しい恐怖を生じさせるだけです。一度そんな質問をすれば、どんな答えが返ってきたとしても、疑わしく聞こえるだけでしょう。
もしその答えが、あなたの望んだものだったとしても、それが不誠実だったり、無理に言われた答えではないかと不安になります。
もし望み通りの答えが得られなければ、最悪の恐怖がとうとう現実になったと思うはめになります。

「心配事を口にするのをやめ、遊びの感覚を養う」

自分の身の回りに起こるすべてを自分でコントロールしようとしないことです。
それをいったんやめれば、あなたは最高の運に身を任せ始めます。



私たちは誰も同じ種類の行動を繰り返します。それでその基礎となる前提が、私たちの頭の中で強化されていきます。嫉妬心でも自信でも、何でも同じです。あなたの中にあるすべての感情、姿勢、信念はあなたの選択によって維持され、強化されるのです。

クセにはまた、いくつかの短所もあります。クセは、まさにそれが前提のようになってしまう場合が多いのです。

「時間にとらわれすぎる」クセ

この正確な時間を知りたがるクセは、ことに広く行き渡っています。多くの人が、1つの出来事を、それが何時何分に始まったのかを知らないでは楽しめないでいるのです。あなたは、これにすっかり気を取られて、その瞬間に実際に起こっていることには触れずじまいになってしまうのです。

「物理的に害のあるクセ」

喫煙、食べ過ぎ、飲み過ぎなどは、そのよい例です。

「自分の生活信条を壊すクセ」

あなたは自分のクセを認めているわけではありません。しかもそれは何らかの形であなたの生活信条を壊しているのです。
あなたはいつも「相手のいいなり」になってしまうクセがあり、いつもあとで悔やんでいます。自分の「お人好し」ぶりに悩んでいます。そんな自分が許せないのです。

こんな「クセ」を破ることから、あなたは2つの結果を得ることができます。あなたは、自分が望んでいなかったことを直ちにやめ、新しい洞察力を得ることができます。

まず、自分のクセを研究することです。

食べ過ぎを例にとってみましょう。食べることが悪習なのではありません。いずれにしろ、あなたは食べなければなりません。ですから「食べ過ぎ」というのは、定義としては明確さを欠いています。

言葉を正確に使うのです。例えば悪習を、パンやケーキを食べ、「おかわりする」ことであると限定するのです。そうすれば、何を避けたらいいかがわかるでしょう。

次に、あなたがいつ、そのクセをするのかを観察するのです。「何がきっかけ」でそれをするのかを観察するのです。
クセについてあらかじめ知っていればいるほど、それを破る準備は出来ていくのです。

クセへの強い衝動は初期段階で増幅するのです。だから、これ程多くの悪習が破られないでいるのです。

「徐々にやめていくのではなく、キッパリやめる」

もしあなたが、一日にほんの数本でも、まだ煙草を吸っているのであれば、その煙草を吸いたいという衝動を強化させてしまっています。
キッパリやめる、というのがこの悪循環を打ち破る最上の方法です。

「煙草を手に持っていないと、まるで自分じゃないみたいだ」と思うのは、あなたがクセを破ろうとしている時の、ノーマルな反応です。だからやがてこの自己不完全感は消えてしまいます。

クセを破ることは、自負への第一歩です。次の一歩は、同じような影響力を持っている他のクセを探し、それを克服することです。自慢などもその例ですし、自分の失敗を話したがらないクセも克服の対象です。






あなたの生活において重要な姿勢は、1つ以上の行動によっているのです。どんな考え方を変えるにも、あなたはクセ的行動の一群を修正しなければならないのです。
ここに重要な暗示があります。5つなら5つの、関連したクセがあるとすれば、それを1つ1つ除去していくより、いっぺんにまとめて破ろうとするほうが簡単であるということです。
全体を変えるのは、バラバラに変えるより、実際簡単なのです。








もしあなたが、あるクセへの衝動を抑えられなかったとします。そのような場合、あなたが問題にすべきなのはクセではなく、強迫かもしれません。

強迫は1つのクセであり、またそれ以上の何かです。
強迫は繰り返されます。一見クセ的な行動ですが、純粋なクセと異なるのは、それをしたいという衝動が、それを我慢するだけでは除去されないことです。

強迫とは、自分が食べているものが原因で皮膚がむず痒くなるのと良く似ています。
かゆいからかくと一瞬楽になるが、かくのを我慢してもかゆさはおさまりません。なぜなら、かゆみの原因はかいたことではないからです。原因は食べたものにあるのです。
クセのほうは、かくことによってさらに持続させられるかゆみのようなもの、と思ってください。



他の推奨し得る理由によって始められた多くの健康的な行動も、もしそれらが責務を果たすべきことだと思われたら、強迫的になります。

責務とは、意識することを妨げること、苦痛を弱めることです。強迫の責務は、逃避を準備することです。

この逃避としての機能を麻酔薬だと思ってください。強迫は、苦しんでいる精神を一時的に楽にする麻酔薬なのです。それは麻酔薬としての機能を果たし、同じように魅力的な打ち勝ちがたさを持っています。
強迫は、苦痛をその場では和らげますが、終極的には、その中にダメージを増加させる結果を導きます。

 なぜなら、強迫の陰にある前提は、現実の問題に立ち向かうことが出来ない絶望感だからです。
そうした前提にのっとって行動すればするほど、自分の問題が打ち勝ちがたいもの出アフるという考えを強化するだけです。
こうして、逃避として目論まれた強迫は、実際は、罠にはまってしまったという感覚を強めます。
それはあなたに、あなたの機略では、問題に直接ぶつかっていくには不十分であるといっているのです。






「これをしない」と、自分の人生で何が失われるか

それをしたい衝動がこみ上げてきたら、クセを破る時に自らに質問しなさい。
声を大にして問いかけるのです。
「なぜ俺は再び始めたいのか?」「この行動をしないと、俺の人生で何が失われるとおもうのか?」そして「この行動をしないと、俺の意識に今何が押し寄せるというのか?」







強迫の「不利な点」をリストアップする

その行動をすると、何が損なわれますか?お金ですか?評判ですか?それとも時間ですか?そのためにあなたはどれほど拘束されますか?そのために、どれほど絶望感が生じてきますか?

このリストアップを直ちに始めなさい。そして自分自身の強迫に関して新しい発見をする度に、これを付け加えていきなさい。
そして何が問題なのかを、できるだけ厳しい態度で正確に述べなさい。







「強迫に関するすべての欺瞞や装いを確認した上でやめる」

アルコール中毒者は、自分は酒をやめられると公言するものです。もしこれが食べることなら、今日はわざとダイエットを破ることに決めたのだ、などと言い訳するのかもしれません。
偽るのはやめること。少なくとも誰か一人に、どうしようもない気持ちでいることを打ち明けなさい。強迫について不安に思っていることを打ち明けなさい。

私たちが、現在尊ぶ、あるいは非難していることのすべては、私たちの最近の行動によって決まっているのです。過去は、私たち常にその手をつかまえて未来に引っぱりこまない限り、私たちのものではありません。










「自分自身に過度な要求はしない」

一貫して強迫に導く人生の落とし穴とは、自分自身に、過度な要求をすることです。
もしあなたが、非現実的な基準を設けるなら、明らかに自分が失敗者のごとく感じるよう、自分で自分を強いていることになります。

この基本的な予防策は、自分の責任を正当に定義づけることです。つまり、これこれは、人生において私になされるはずの合理的な要求である、といえることです。

自分自身に過度な要求をしていると、それは他者の生活への、過度な関わり合いを持ってきます。
そのような哲学で行動すれば、この世は悪しき、利己的なものに思えてくるでしよう。あなたは孤立し、人々は利用するためだけに存在するように感じてしまうでしょう。

だからといって私は、他人の人生にまったく関心を持つな、と言っているのではありません。私はその関心に理にかなった限度を設けよ、と言っているのです。

「理にかなった」というのは、単にあなたの責任が、人間的に我慢出来るようなものであるべきだ、ということだけでなく、あなたは、不合理で、不必要な責任を引き受けなくてもいいということなのです。


本当は必要が無いのに、人々が必要だと思い込んでいる行動があります。自己創造の原則は、その行動を必要だと思ってしている人達、つまり強迫症の人や腹を立てている人を救います。つまり、その人達は「必要ではない」のだとわかって安心するのです。





いえ、本当はもう私たちはやめてしまっているのです。抑うつの本質は、行動しないということだからです。行動をやめることなのです。なぜなら、努力はくだらない…そう思ってしまうからです。そして何かをやめるたびに、それは無益であるという前提を強化しているのです。

抑うつの人が唯一採用する行動…それは引っ込むことです。

抑うつの治療の鍵は、クセのためのそれと考え方は同じです。なぜなら、抑うつは「クセ」なのですから。あなたは、今までやめることによってクセを打ち砕いた。ならば、抑うつを打ち砕くためには、「やめることをやめる」のです。
何かをしなさい!行動するのです!

抑うつは変えられないものだと、先走って決めてしまわないでください。なぜなら、事実どうにかなるものだからです。
実際に私は見てきました。抑うつ症の人は自分をなおすことができるのです。






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