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自分が「たまらないほど好き」になる本 ジョージ・ウェインバーグ著 加藤諦三訳

しかし、いくらそう願ってみても、この本が
あなたを変えるわけではありません。ただあなただけがあなたを変えられるのです。なぜなら、あなたを創ったのはあなた自身なのですから。

次に挙げるのが、人が自己の人格を創造する過程において、日々作用している基本的な原則です。
「あなたが何らかの行動を起こしたとします。するとその度に、自分のした事の動機となって考えを強めているのです。」

もう一度いいます。いつでも私たちは、自分の感情を自分の行動によって形作っているのです。

彼らは自分自身の行動によって自信を持っているのです。
私たちが時にその作用を認識している例の原則は実は、年中作用しているのであって、それが私たちに及ぼす影響は、これまで知る以上にずっと大きく、連続的であると、この本は言っているわけなのです。

社会が個々人を行動に誘います。しかし各人がそれぞれの未来を創造し、そして経験するのです。もしこの原則を理解すれば、あなたはそういった世情のあやつり師たちの犠牲となりにくくなるのです。

この原則は、なぜある人々か抱く確信が、他人から見ればまったく道理にかなわないものであるかを説明しています。最も訳知りの人でも、ひどく道理に合わないことを信じるようになったり、ある種の行動により、自分の真実を確信したりすることもあり得るのです。

人はまったく自分の力だけで変化しています。古典的な療法もこのことを認めています。それをトラウマの理論といってます。

恐怖に根ざした回避の行動は、恐怖をさらに堅固なものにします。

一時の失敗で、一生失敗するのではないかと恐れないようにしましょう。恐怖の原因となるのは、物事を回避することなのです。失敗した人は誰でも、すぐに恐れるわけではありません。もう一度試みることを回避した人が失敗を恐るようになるのです。

新しい責任を負うというのは、大抵ハッピーなトラウマの典型的な源です。そしてこれはどんな年齢にも起こり得ます。

私はもちろん、他人の評価を無視せよと言っている訳ではありません。しかし、いつでも他人に好かれようとしていると、不安を増し、他人が自分をどう思っているかということばかり気になるようになってしまいます。そして自分が沢山良い所を持っているのに、間違ったことばかりを重んじ、それを他人にひけらかすようになってしまいます。

ある1つの行動に対する動機には、常に2つの要素が含まれています。目的と信念です。信念とはその目的を完遂させるためにこの行動が役立つと信じることです。

子供の時からずっと、実際に首尾一貫した姿勢のままでいることが、どんなに容易であるか、ということをこの例は示しています。原則によると、人間は日々自分を再創造することが出来るようになっていても、同じでいることの方が容易であることは確かです。

一度1つの行動の仕方が採用されると、トラウマによって力ずくで崩されない限り、普通はそのまま残ることになります。その行動を捨てる理由がないと、それはそれ自体で持続していきます。習慣と同じようにほとんど自律的に、「それ自体で持続」します。

私たち自身によって、私たちの自発的な行動によって創造されていくのです。この精神形成、精神維持は、人間の法則に従って行われるのです。その法則は非常に確かで証明出来るものです。
私はこれを自己創造の原則と呼びたいのです。
「原則とは、行動する度に、その行動の裏にある動機となる感情、姿勢、信念を強化しているのだ」ということです。

この原則こそ、私たちの精神生活を理解し、コントロールするための、唯一の鍵である。この原則は私たちが、どうして今日に至ったか、今どんな人間なのか、どうやって変わるかを知る助けとなってくれます。



自分がパラノイアかどうかを見分ける訓練
「停まって、見て、聞く」

自己を守るための何かをする「前に」停まるのです。
私はこの方法を拡大法と呼びます。
まず何か行動を起こしたくなる衝動を我慢し、それをやった場合の想像を自分で膨らませ、拡大させ、よりあからさまにさせるのです。動機が、その偽装を破ってあらわになります。

例えばあなたが新しい鍵を買わないなら、誰かがあなたの部屋に盗み入るのではないかと不安だったら、そう書きとめておくのです。
そして、あなたの恐怖は、あなたが救いをもたらすと思っている行動をやめた時、最も激しいものになるでしょう。やめるポイントは、自分の恐怖を意識することです。一度、自分の恐れているものを知ってしまえば、それに関してどうにか対処出来るのです。

「あなたは、どのような動機となる考えも、どのような感情も姿勢も信念も、それらを強める結果をもたらす行動を止めることによって、弱めることが出来る」


あなたが恐怖に従って行動する度に、つまり自分を守ろうとして行動する度に、「あなたは自分が危険である」という前提を強めています。そして、何も恐れることはないという前提のもとで行動すれば、それは時には、何の行動も起こさないということになることでもあるのです。
もしあなたが、忍耐という前提に立って行動するなら、忍耐は強化されます。弱点や弱みという前提の上での行動は、その弱いという感覚が助長されます。

「人から安心感を得ることを期待しない」

友達に、恋人に、まだ自分は魅力的であるかどうかなどと尋ねるのをやめなさい。
ここで立ち止まって、自分の動機を考えてみることです。あなたは何かを疑っているのではないですか?
その疑わしい気持ちにのっとって行動していたのでは、疑いはあなたから去りません。新しい疑問と、新しい恐怖を生じさせるだけです。一度そんな質問をすれば、どんな答えが返ってきたとしても、疑わしく聞こえるだけでしょう。
もしその答えが、あなたの望んだものだったとしても、それが不誠実だったり、無理に言われた答えではないかと不安になります。
もし望み通りの答えが得られなければ、最悪の恐怖がとうとう現実になったと思うはめになります。

「心配事を口にするのをやめ、遊びの感覚を養う」

自分の身の回りに起こるすべてを自分でコントロールしようとしないことです。
それをいったんやめれば、あなたは最高の運に身を任せ始めます。



私たちは誰も同じ種類の行動を繰り返します。それでその基礎となる前提が、私たちの頭の中で強化されていきます。嫉妬心でも自信でも、何でも同じです。あなたの中にあるすべての感情、姿勢、信念はあなたの選択によって維持され、強化されるのです。

クセにはまた、いくつかの短所もあります。クセは、まさにそれが前提のようになってしまう場合が多いのです。

「時間にとらわれすぎる」クセ

この正確な時間を知りたがるクセは、ことに広く行き渡っています。多くの人が、1つの出来事を、それが何時何分に始まったのかを知らないでは楽しめないでいるのです。あなたは、これにすっかり気を取られて、その瞬間に実際に起こっていることには触れずじまいになってしまうのです。

「物理的に害のあるクセ」

喫煙、食べ過ぎ、飲み過ぎなどは、そのよい例です。

「自分の生活信条を壊すクセ」

あなたは自分のクセを認めているわけではありません。しかもそれは何らかの形であなたの生活信条を壊しているのです。
あなたはいつも「相手のいいなり」になってしまうクセがあり、いつもあとで悔やんでいます。自分の「お人好し」ぶりに悩んでいます。そんな自分が許せないのです。

こんな「クセ」を破ることから、あなたは2つの結果を得ることができます。あなたは、自分が望んでいなかったことを直ちにやめ、新しい洞察力を得ることができます。

まず、自分のクセを研究することです。

食べ過ぎを例にとってみましょう。食べることが悪習なのではありません。いずれにしろ、あなたは食べなければなりません。ですから「食べ過ぎ」というのは、定義としては明確さを欠いています。

言葉を正確に使うのです。例えば悪習を、パンやケーキを食べ、「おかわりする」ことであると限定するのです。そうすれば、何を避けたらいいかがわかるでしょう。

次に、あなたがいつ、そのクセをするのかを観察するのです。「何がきっかけ」でそれをするのかを観察するのです。
クセについてあらかじめ知っていればいるほど、それを破る準備は出来ていくのです。

クセへの強い衝動は初期段階で増幅するのです。だから、これ程多くの悪習が破られないでいるのです。

「徐々にやめていくのではなく、キッパリやめる」

もしあなたが、一日にほんの数本でも、まだ煙草を吸っているのであれば、その煙草を吸いたいという衝動を強化させてしまっています。
キッパリやめる、というのがこの悪循環を打ち破る最上の方法です。

「煙草を手に持っていないと、まるで自分じゃないみたいだ」と思うのは、あなたがクセを破ろうとしている時の、ノーマルな反応です。だからやがてこの自己不完全感は消えてしまいます。

クセを破ることは、自負への第一歩です。次の一歩は、同じような影響力を持っている他のクセを探し、それを克服することです。自慢などもその例ですし、自分の失敗を話したがらないクセも克服の対象です。






あなたの生活において重要な姿勢は、1つ以上の行動によっているのです。どんな考え方を変えるにも、あなたはクセ的行動の一群を修正しなければならないのです。
ここに重要な暗示があります。5つなら5つの、関連したクセがあるとすれば、それを1つ1つ除去していくより、いっぺんにまとめて破ろうとするほうが簡単であるということです。
全体を変えるのは、バラバラに変えるより、実際簡単なのです。








もしあなたが、あるクセへの衝動を抑えられなかったとします。そのような場合、あなたが問題にすべきなのはクセではなく、強迫かもしれません。

強迫は1つのクセであり、またそれ以上の何かです。
強迫は繰り返されます。一見クセ的な行動ですが、純粋なクセと異なるのは、それをしたいという衝動が、それを我慢するだけでは除去されないことです。

強迫とは、自分が食べているものが原因で皮膚がむず痒くなるのと良く似ています。
かゆいからかくと一瞬楽になるが、かくのを我慢してもかゆさはおさまりません。なぜなら、かゆみの原因はかいたことではないからです。原因は食べたものにあるのです。
クセのほうは、かくことによってさらに持続させられるかゆみのようなもの、と思ってください。



他の推奨し得る理由によって始められた多くの健康的な行動も、もしそれらが責務を果たすべきことだと思われたら、強迫的になります。

責務とは、意識することを妨げること、苦痛を弱めることです。強迫の責務は、逃避を準備することです。

この逃避としての機能を麻酔薬だと思ってください。強迫は、苦しんでいる精神を一時的に楽にする麻酔薬なのです。それは麻酔薬としての機能を果たし、同じように魅力的な打ち勝ちがたさを持っています。
強迫は、苦痛をその場では和らげますが、終極的には、その中にダメージを増加させる結果を導きます。

 なぜなら、強迫の陰にある前提は、現実の問題に立ち向かうことが出来ない絶望感だからです。
そうした前提にのっとって行動すればするほど、自分の問題が打ち勝ちがたいもの出アフるという考えを強化するだけです。
こうして、逃避として目論まれた強迫は、実際は、罠にはまってしまったという感覚を強めます。
それはあなたに、あなたの機略では、問題に直接ぶつかっていくには不十分であるといっているのです。






「これをしない」と、自分の人生で何が失われるか

それをしたい衝動がこみ上げてきたら、クセを破る時に自らに質問しなさい。
声を大にして問いかけるのです。
「なぜ俺は再び始めたいのか?」「この行動をしないと、俺の人生で何が失われるとおもうのか?」そして「この行動をしないと、俺の意識に今何が押し寄せるというのか?」







強迫の「不利な点」をリストアップする

その行動をすると、何が損なわれますか?お金ですか?評判ですか?それとも時間ですか?そのためにあなたはどれほど拘束されますか?そのために、どれほど絶望感が生じてきますか?

このリストアップを直ちに始めなさい。そして自分自身の強迫に関して新しい発見をする度に、これを付け加えていきなさい。
そして何が問題なのかを、できるだけ厳しい態度で正確に述べなさい。







「強迫に関するすべての欺瞞や装いを確認した上でやめる」

アルコール中毒者は、自分は酒をやめられると公言するものです。もしこれが食べることなら、今日はわざとダイエットを破ることに決めたのだ、などと言い訳するのかもしれません。
偽るのはやめること。少なくとも誰か一人に、どうしようもない気持ちでいることを打ち明けなさい。強迫について不安に思っていることを打ち明けなさい。

私たちが、現在尊ぶ、あるいは非難していることのすべては、私たちの最近の行動によって決まっているのです。過去は、私たち常にその手をつかまえて未来に引っぱりこまない限り、私たちのものではありません。










「自分自身に過度な要求はしない」

一貫して強迫に導く人生の落とし穴とは、自分自身に、過度な要求をすることです。
もしあなたが、非現実的な基準を設けるなら、明らかに自分が失敗者のごとく感じるよう、自分で自分を強いていることになります。

この基本的な予防策は、自分の責任を正当に定義づけることです。つまり、これこれは、人生において私になされるはずの合理的な要求である、といえることです。

自分自身に過度な要求をしていると、それは他者の生活への、過度な関わり合いを持ってきます。
そのような哲学で行動すれば、この世は悪しき、利己的なものに思えてくるでしよう。あなたは孤立し、人々は利用するためだけに存在するように感じてしまうでしょう。

だからといって私は、他人の人生にまったく関心を持つな、と言っているのではありません。私はその関心に理にかなった限度を設けよ、と言っているのです。

「理にかなった」というのは、単にあなたの責任が、人間的に我慢出来るようなものであるべきだ、ということだけでなく、あなたは、不合理で、不必要な責任を引き受けなくてもいいということなのです。


本当は必要が無いのに、人々が必要だと思い込んでいる行動があります。自己創造の原則は、その行動を必要だと思ってしている人達、つまり強迫症の人や腹を立てている人を救います。つまり、その人達は「必要ではない」のだとわかって安心するのです。





いえ、本当はもう私たちはやめてしまっているのです。抑うつの本質は、行動しないということだからです。行動をやめることなのです。なぜなら、努力はくだらない…そう思ってしまうからです。そして何かをやめるたびに、それは無益であるという前提を強化しているのです。

抑うつの人が唯一採用する行動…それは引っ込むことです。

抑うつの治療の鍵は、クセのためのそれと考え方は同じです。なぜなら、抑うつは「クセ」なのですから。あなたは、今までやめることによってクセを打ち砕いた。ならば、抑うつを打ち砕くためには、「やめることをやめる」のです。
何かをしなさい!行動するのです!

抑うつは変えられないものだと、先走って決めてしまわないでください。なぜなら、事実どうにかなるものだからです。
実際に私は見てきました。抑うつ症の人は自分をなおすことができるのです。